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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
自分の足で
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助走

 わたしたちの結婚は、最初から周囲に祝福されていたわけではなかった。


 苦労人の彼は大人びて見えたけれど、実のところまだ社会人になったばかり。

 わたしは長年の教会生活で、蓄えも社会経験と呼べるものもほとんどなく、精神的にもまだまだ不安定なまま。

 周囲が不安に思うのも無理はなかった。


 どうしたらみんなに納得してもらえるのか。

 そもそも父を置いて家を出られるのか。

 出られたとしても、本当に経済的にやっていけるのか。

 もしわたしがまた精神的におかしくなったらどうするのか。


 考えるほどに尻込みしそうになるわたしの手を、彼はぐいぐいと引っ張っていく。


「今の俺たちには確かなものが何もないんだから、死に物狂いで結果を出していくしかない。倒れてる暇なんかないよ、俺は冬子がボロボロになってもひきずっていくからね」


 そんなことばで彼は、わたしの弱さを封印していった。



 ちょうどその頃、以前のバイト先から派遣の仕事を紹介された。

 それまでも短期の派遣は経験があったし、塾のバイト以外に時折フリーの仕事を頼まれることもあった。が、今度の仕事はフルタイムで長期、それも都内に通勤しなければならない。

 幸い春から兄の家族が同居することが決まり、家のことは兄嫁が引き受けてくれるという。

 それでも自信がないと悩むわたしに、彼はこともなげに言った。

「今の冬子なら大丈夫だよ」

 それに背中を押されるようにして、わたしは仕事を受ける決意をした。




 もうひとつわたしの中でずっとひっかかっていたのが、教会のことだった。


 すでに関わりを断ってはいたが、わたしはまだ形式的には教会員のままだった。そこで正式に離教届を提出し、彼と2人でわたしを伝道した森田に会いに行くことにした。


 考え直せと食い下がられるのを覚悟してその場に臨んだが、意外にも彼女はあっさりとわたしの決意を受け入れてくれた。

「冬子ちゃんをよろしくお願いします、いろいろ苦労してきてますから」

 そう言って涙ながらに彼に頭を下げる森田。

 彼女のことはなぜだかずっと好きになれずにいたが、本当はわたしが思っていたよりもずっとしなやかで深い人だったのかもしれないと、複雑な気持ちでその光景を眺めた。




 新年度が近付くと、週末ごとに同居の準備のために兄の家族がやってきた。わたしは兄嫁に家のことを任せ、彼と出かけるようになった。


 父の食事のことも、父をひとり置いてでかける居心地の悪さも考えなくていい。ようやく肩の荷が下りた気がした。


 それなのに。


 夜になって家に帰ると、兄嫁が夕飯の後片付けをしていて、兄は甥っ子と遊び、父はのんびり座敷で横になっている。

 その光景に、何とも言えない淋しさがひたひたと押し寄せてくるのだった。自分の居場所がなくなったような、わたしだけがポカンと浮いてしまったようなたまらない気持ち。


 心がぐちゃぐちゃになりそうだった。




 その夜、父と義姉と3人でお酒を飲んだ。


 父は今まで見たことがないほど楽しそうに笑って、呂律の回らなくなった口でいろんなことを話してくれた。


 ――俺は冬子のことが、心配でしょうがないんだ。

 ――うちはだめだ。母ちゃん以外はみんな、人付き合いが悪いからなぁ。


 下戸のわたしはほんのちょっとのビールでふわふわしてきて、後片付けを義姉に任せて部屋に戻った。

 しん、とした空気に包まれながら、彼に電話をする。


「あんなお父さん初めてで、嬉しかったんだけど――なんだかね、淋しいな、とも思っちゃったんだ」


 そうつぶやくと、彼は言った。


『……きっとそうやってさ、家を出ていくようになるんだよ』


 ああ、そうだね。

 わたしは受話器を持ったまま、そっと目を伏せ泣きそうに微笑んだ。




 3月になるとフリーの仕事が立て続けに入り、急に忙しくなった。兄たちを迎える準備もあって慌ただしい日々が続き、父の顔色に一喜一憂する余裕もない。

 本格的に仕事が始まったら、今までのように病院に通うこともできなくなるだろう。

 でもきっと大丈夫、そういう時がきたということなのだ。


 時は春。

 期待と不安を抱えながらも、わたしは彼と生きる未来に自分を押し出していこうとしていた。

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