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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
自分の足で
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クリスマスイブ

我ながらちょっと恥ずかしい、恋愛時代のドラマチックな思い出です。

少し長めです。

 わが家には「鍵」がなかった。


 時代に取り残されたような古い農家。

 玄関や窓の木枠についていたのは、昔ながらのくるくる回るネジ締り錠、裏の木戸には、頑丈な(かんぬき)

 どちらも内側からしか開け閉めができない。

 いつでも誰かが家にいて、留守を守らなければならなかった。


 大人がみんな出かける日には、留守番を頼まれた。

 友達と遊びたくても我慢して、しん、とした家の中で過ごす。


 いくらでも手はあったはずなのだ、南京錠をつけるとか玄関をサッシに替えるとか。実際同じような古い家はどこもそうやって鍵をつけ、平気で家を留守にしていた。

 でもわが家だけはそうせずに、頑固なほどに昔通りの暮らし方を守り続けていた。



 新しいことは、贅沢。

 遊びたいなんて、ただの我儘。



 そんな呪縛から逃れたくて故郷を離れたはずなのに、やはりわたしはどうしようもなくこの家の人間のままで。

 何かを変えようとすることに二の足を踏み、自分の欲望を満たすことに罪悪感を抱くのは、幾つになっても同じだった。



 いつもたやすく自分を抑え込もうとするわたしに、彼は尋ねた。

「何を考えているの? いったい冬子はどうしたいの?」


 彼には最初からわかっていたのだ。

 わたしが自分らしく生きていくためには、過去もこの家もそして父という存在も越えていかなければならないのだと。

 だから、後ずさりしてすぐにあきらめそうになるわたしに、すべての情熱を注ぎ込んで無理やりにでも心をこじ開けようとした。



 最初はその激しさをただの我儘としか思えずに、何度も衝突を繰り返した。


 そのどれもがほんの些細なきっかけで、でも今思えばそのどれもが、2人にとってはとても大切なことだった。



 なかでも忘れられないのが、クリスマスイブのできごとだ。


 父に見つかって以来夜中に抜けだすのは気が引けて、会う回数はがくんと減っていた。

 けれどもその日はイブ。浮き立つ心を抑えきれずに精一杯のおしゃれをし、いそいそとプレゼントも用意して、彼の車でレストランに向かった。


 テーブルをはさんでことばを交わしていくうちに、どこかぎくしゃくとしていた空気も薄れ、いつも通りの2人になっていく。


 やがて、年末年始の話になった。


 彼は新幹線で実家に帰り、三が日を過ごす予定だという。

 こちらも年末にかけて大掃除やら買い物やらおせち作りやら、やることはたくさんある。


「じゃあ……次に会えるのは、正月明けだね」


 あっさりと言い放った瞬間、彼の顔色がさっと変わった。


「どうして?」


「え?」


「それまでずっと会えないのって俺はすごく辛いけど……冬子は平気なの?」


 怒りを含んだそのことばに、わたしはハッとした。


「平気なわけじゃない、けど……」


 どう答えていいかわからず口ごもる。


「平気じゃないけど、何?」


「だって、年末は忙しいし……」


「1日も会えないくらい忙しいの?」


「いや、それは……」


 消え入りそうになる語尾に、彼はますます苛立っていく。


 わかってる。

 この時期に家を空けると言えば、父は決していい顔をしない。

 それを知っているから、いつもの癖で最初から会いたい気持ちに蓋をしていたのだ。


 無意識のうちに自分を殺し、父との衝突を避けようとするわたし。

 彼はそれを見逃さなかった。



 黙り込むわたしに彼はなおも畳みかける。


「いったい冬子はどうしたいの?」


「そりゃあ、会えるなら会いたいけど……」


「じゃあ、会えばいいじゃない」


「そんなこと言ったって……」


「そんなこと言ったって、何? どうしていつも、最初から無理だって決めつけるの?」


 怒りで青ざめた彼の頬。

 重苦しい沈黙。


 容赦なく追い詰めようとする彼の物言いが、元夫とリンクする。

 あの人もちょうどこんな風に、いつも怒りで青ざめ黙り込んでいた。


 確かに彼の言うとおりだ。

 いつまでも逃げていてはいけないのもよくわかってる。


 でも、辛すぎる。



 張りつめたままの耐え難い空気に、自分の心がスーッと閉じていくのがわかった。





「――――帰る」


 やっとの思いでそれだけを口にすると、ふらふらと席を立った。


「ちょっと待ちなさい。ちゃんと話そう」


 腕をつかまれたわたしは、いやいやをするように首を振る。

 彼はさらに何か言いかけたが、やがて小さく息を吐き、あきらめたようすでレジに向かった。



 彼が支払いをしている隙に、わたしはその後ろをさっとすり抜け店を飛び出した。

 早く、早く、ここから逃げなければ。

 何かに憑かれたかのように、夢中で駅への道を急ぐ。


 とにかく駅まで辿りつけさえすれば、そこからはバスで帰れる。

 怯えながら後ろを振り返り、彼が追ってこないことを何度も確かめた。


 このままバスに乗って、家に帰って、そして――



 そこまで考えたとき、思わずハタと立ち止まった。


 家に帰って、どうする?


 このあと彼から電話が来たら?

 彼が家まで会いに来たら?


 父にはいったいなんて言うの?

 もう彼には会いたくないって?



 そんなことしたら、本当に引き返せなくなる。



 ここから逃げ出すことの意味が、ようやく現実味を帯びて重くのしかかってきた。


 ここで別れて、そのまま時間が経ってしまったら――――わたしたちはそのまま、終わりになってしまう。



 心臓が激しく脈を打つ。


 このまま彼を失う?


 と、ふいに胸に込み上げてきた誤魔化しようのない想い。




 嫌だ、そんなのは絶対嫌だ!




 何かに突き動かされるように慌てて踵を返し、今来た道を戻り始めた。


 歩き続けたパンプスのつま先が、締め付けられるように痛む。

 でも構ってはいられない。


 何度も転びそうになりながら、ひたすら彼のもとへ急いだ。





 ようやくレストランの駐車場に着いて、白の小型車を探した。


 が、何度見回しても、そこに停めたはずの彼の車はなかった。もしかしたら場所を移動したのかもしれないと駐車場内をくまなく探し回ったけれど、どうしても見つからない。


 ああ、どうしよう。


 頭の中が真っ白で、心臓が爆発しそうだった。


 ぎゅっと胸に手をあてて気持ちを落ち着かせ、隣の駅にある彼のアパートに向かった。が、そこにも彼はいない。


 寒さに震えながら立ちつくす。


 いったいどこにいるの。

 今すぐ会いたい、会って謝りたい。

 お願いだから帰ってきて。


 けれど携帯電話もない時代、一度離れてしまったら連絡のとりようがなかった。


 怒りにまかせて猛スピードで車を走らせ続ける彼の姿が脳裏に浮かぶ。もうおしまいだ、ここまで彼を本気で怒らせてしまったのだ。




 急速に世界が色彩を失っていった。


 彼のいない世界。


 何の喜びもない灰色の時間。


 果てしなく続く、砂漠のような人生。



 自分と向き合う苦しさに、思わず離した彼の手。

 その気になればいつでも取り戻せるものと信じて。


 けれど、そうではなかった。


 道がクロスするのは、ほんの一瞬だけなのだ。

 再び離れてしまえば、二度と交わることはなくなってしまう。


 馬鹿だ、そんなことにも気付かなかったなんて……。






 1時間待っても彼は戻ってこなかった。

 

 今日はあきらめてもう家に帰ろうと、いつものバス停からとぼとぼと夜道を歩いた。


 身をちぎられるような後悔の念があとからあとから押し寄せ、泣きそうになる。


 いったいこれからどうしたらいいのだろう。




 と、そのとき突然、わたしの目の前に何かが立ちはだかった。


 びっくりして顔を上げると、息を切らし目を見開いてそこに立っていたのは――――彼だった。


「どこに行ってたの!」

 いきなり怒鳴りつけられ、そして思いきり抱きしめられた。


「何度も家に電話しちゃったよ、でも帰ってないっていうからさ……」

 絞り出すような彼の声。


 ひょっとして夢ではないのか?

 信じられない思いで彼にぎゅっとしがみつく。


 柔らかな髪から漂うタバコの香り。 

 ああ、本物だ。


「ごめん、ずっとアパートで待ってた……」


 彼がハッと息を呑むのがわかった。


 ――このまま終わるのは、どうしてもいやだったから。


 掠れる声でそう告げたわたしを、彼は息ができないほどにもう一度強く抱きしめた。





 どれくらいの間、そうしていたのだろう。


 2人の横を、何台もの車がクラクションを鳴らしながら通り過ぎていく。



 夢見心地でその音を聞きながら、わたしは何度も強く心に誓っていた。


 今度こそ、何があっても決してこの手を離さない、と。

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