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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
自分の足で
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ダブルバインド

 あの頃、わたしの頭の中はひどく混乱していた。


 生まれ育った家の非合理的な堅苦しさ。

 それに反発しようとする行き過ぎた正論。

 後付けで刻みつけられた教会の教え。

 もつれた心をを淡く照らそうとする精神科の医師のことば。

 そして、強烈な磁力のような彼への気持ち。


 さまざまな次元の思考や感情が渦巻いていて、そのどれに従っていいのかわからない。


 しばしば混乱し黙り込むわたしに、彼はいつも尋ねた。

「今、何を考えてるの? いったい冬子はどうしたいの?」


 わからないのだ、どれが自分の考えなのか。

 頭の中が真っ白になって、結果、また黙り込む。


 口を閉ざしたままのわたしに彼は畳みかける。

「わかった。じゃあ、頭の中にあることをとにかく全部ことばにしてごらん」

 けれどいつもそれは、形にならずにただ空回りするだけ。


 その頃のわたしはまったく理解していなかった。

 自分を見えないところで支配し、混乱を引き起こす一番の原因となっていたのが、教会の教えでも精神科医でも彼でもなく、父だったのだということを。



 父が実際に何かをしていたわけではない。

 ただ、わたしの心の中に住みついた父の幻は、常にわたしを監視していた。


 ダブルバインド――二重拘束と言う心理学のことばを、大人になってから知った。二つの矛盾した命令を受け取ることで混乱し心理的に束縛されていくというからくり。


 幼い頃から、父に何かを禁止されたことはなかった。

 けれども、

「わかった。それなら思った通りにやってみろ」

 そう言う父の表情や声色からは、いつも別のメッセージが聞こえてきた。

「これだけ言ってもおまえにはわからないのか、どうしようもない奴だ」


 茶碗を土間に叩きつけたあの日も、直前まで見せていた笑顔の意味は決して笑顔ではなく、祖父にかける親孝行なことばも、激しい憎しみの屈折した表現でしかなかった。


 母は無神経で理不尽だったけれど、心にもないことは口にしなかった。

 けれども父の言うことには必ず裏の意味がある。

 そのことを長い時をかけて思い知ったわたしは、いつの間にか父のことばにならないことばに支配されるようになっていた。

 そして心の深い部分まで見えない鎖でがんじがらめになり、ありのままの自分をすっかり見失ってしまった。

 いや、ありのままの姿でいてはならないと思い込むようになっていたのだ。


 だからいつも必要以上に緊張し、本当は嫌われているんじゃないかとびくびくし、こんな自分が愛されるわけがないと信じ込んだ。


 変わった子どもだったから?

 いじめられていたから?


 そうじゃない。

 そんなことのもっと前から、わたしはこの世界に居場所がないと感じてしまっていたのだ。




 彼は言った。

「冬子は、お父さんのことを神のように崇めている。でも、お父さんだって普通の人間なんだよ」

 そのときは、何を言われているのかよくわからなかった。

 わからないくらいに、父はわたしの奥深くにがっちりと見えない根を張っていた。


 けれど今ならわかる。あのときのわたしにとって確かに父は神のように大きな存在で、そしてわたしはその神に愛されていないと思い込んでしまっていたのだ。



 自分ひとりではどうすることもできなかったであろう欠落感と混乱。

 でも彼は、根深い不安や自信のなさに根気よく付き合い続けてくれた。そのおかげでわたしは、ほんの少しずつではあるが父の呪縛から抜けだしていくことができたのだった。

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