父の呪縛
「父ちゃんと母ちゃん、どっちが好き?」
そう尋ねられ、首を傾げて考え込んだ。
母はいつも怒ってばかりだから、嫌い。
が、父のことは好きか嫌いかさえわからなかった。
何の感情も沸いてこない。
いつだって重苦しい表情で押し黙るばかりの父は、幼いわたしにとって理解不能の近寄り難い存在でしかなった。
さらに、長ずるにつれ何度となく父が見せた前触れなしの大爆発は、わたしをひどく混乱させた。
どうして?
わたし、何か悪いことしちゃった?
わたしは次第に父を畏れるようになった。
神の審判に怯える罪人のように。
父がそこにいるだけで感じてしまう、無言の圧力。
何も言わないけれど、実はわたしに腹を立ててるんじゃないだろうか。
また突然、裁きの鉄槌が下るのではないだろうか。
そんな想いがいつも頭から離れず、何をするにも委縮してしまう。
大人になってからもそれは変わらなかった。ただ、距離を保つことで気付かないふりをしていただけで。
が、母に続き、やがて入院していた祖父も亡くなった。
父娘2人きりの暮らしが、それまで見ないようにしてきた歪な関係をあぶりだしていく。
父が何を言うわけではないのだ。
なのに、食費を請求するたびに使いすぎだと責められているようで、ちょっとのんびりしていると役に立たないごく潰しと思われている気がして、外に出かければろくに家事もこなせないのに遊び歩いてと非難されているように思えて、気の休まるときがなかった。
自分のことは一番後回し、いつも誰かのために犠牲にならなければいけない。
わたしをがんじがらめに縛りつけていた見えないそれは、「父のように生きねばならぬ」という呪縛。
あの家にいると、息が詰まりそうだった。
彼と出会ってからも、その見えない鎖はわたしを苦しめていた。
――家のこともちゃんとできていないのに、男と遊びに行くなんて。
そんな声がいつも聞こえるような気がして、それでも会わずにいられなくて、父に知られることのないように闇に紛れてこっそり部屋を抜けだした。
会えば会ったでどうにも離れ難く、どこかで自分を責めながら彼の車で明け方まで過ごす。
やがてそれは次第にエスカレートし、彼は夜毎にわたしの部屋に忍び込み、空が白む頃に帰っていくようになった。
彼のことを思うときの痺れるような幸福感と、見えない呪縛に押しつぶされそうな息苦しさ。
二つの間を不安定に行ったり来たりしながら、わたしはその季節を過ごした。
そんなある朝、彼から電話がかかった。
「お父さんに見つかった」
聞くと、彼が塀の隙間から出ていった瞬間を父らしき人に見られたのだという。無言で車を止めた場所までつけられ、ナンバーを控えられたと。
背筋が凍る思いがした。
「大丈夫、ちゃんと挨拶しに行って、今日のことも謝るから」
すっかり動揺するわたしを、彼はそう言って落ち着かせた。
週末、彼は約束通り家に来てくれた。
ガチガチに緊張しながら、実は3か月前から付き合っているのだ、と紹介すると、父は難しい顔のまま「わかった」とひと言。
これでようやく堂々と会えるとホッとしたのも束の間。
夜の9時過ぎ、夕飯を済ませそのまま彼と部屋にいると、どこからともなく声が聞こえてきた。
庭に出てみると、母屋から大音量のTVの音。
それに紛れるようにして、
「母ちゃん……!」
父が大声で泣き叫んでいた。
父は、酔っていた。
4年前に胃の手術をしてからは、酒もタバコもやめていたはずなのに。
「お前ら見てると、危なっかしくてしょうがねえんだよぉ」
絞り出すような声でわたしたちをなじる父。
待ってくれ、さっきは「わかった」と言ってくれたではないか。
それにもう恋愛を親にとやかく言われる年ではないはずだ。
が、そう困惑する一方で、自分のしていることが父にとっては受け入れ難いのだという事実はひどくわたしを動揺させた。
「向こうの親を通して付き合うなら、少しは安心するんだけどなぁ……」
そう言って父はまた泣く。
若い男に遊ばれているとでも思っているの? わたしは少し気色ばみ、震える声で言った。
「わたしたち、いいかげんな気持ちで付き合ってるわけじゃないから」
父が射るような目でこちらを見る。
思わず身がすくんだ。
でも今度ばかりはこのまま終わるわけにはいかない。
どうしたら分かってもらえるのかと頭を働かせ、必死になって思っていることをそのままぶつけた。
「わたしね、お父さんが何考えてるかわからなくて……いつも、びくびくしちゃうんだよ」
やっとのことでことばを紡ぐ。
すると父は呻くようにこう答えた。
「……俺もだ」
思わず深く落ちくぼんだその目を見詰めた。
考えてもみなかった。
わたしが父を畏れるように、父もわたしがわからず苦しんでいるなんて。
今ならよくわかる。本当は口下手で心配性で、情けないほどの弱さと孤独を抱えていた父なのだと。
けれどこのときのわたしは自分のことで精一杯、ただ困惑するだけでその苦しみを理解してあげることなどできなかった。
あきれるほど不器用なやりかたで、ほんのわずかずつ歩み寄るしかなかったわたしたち親子。
手が届く前に父の心が静かに壊れ始めていたことなど、当時のわたしには知る由もなかった。