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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
わたしを形作るもの
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トクゾウの血

 トクゾウ。


 それは、今は亡き祖父の名前。


 人々は、彼をこう呼んだ。

「町内一の一刻者(頑固者)」

 あのじいさんじゃ大変だねえ、とわたしたち家族はいつも周囲から同情の目を向けられていた。


 今でもわたしたち兄弟の間では、「おまえ、トクゾウそっくりだな」というのが相手に対する最大の罵りのことばである。

 そのくらい、煮ても焼いても食えない爺さんだった。


 生前の彼の口癖は、「もったいねえ」。

 七十過ぎまで一家の財布を握り、「もったいねえ」からと孫のわたしたちを保育園にも幼稚園にも行かせなかった。

 後ろ頭は刈り上げられ、時代遅れのお古を着せられ旅行も外食もしたことがなかったわたしたち兄弟。

 いくら田舎だといっても、そんな子どもはほかにいなかった。


 あの家だけ、十年二十年時が止まってた。


 そんなトクゾウに人づきあいなどできるはずがなく。

 近所のご老人達からゲートボールに誘われたときも、茶菓子を持ちよるのがもったいないがために断ったという。

 そのくせ何かの集まりや冠婚葬祭、とにかくタダ酒が飲める場になると俄然色めき立ち、決まってべろんべろんに酔いつぶれるまで飲み続けるのだ。いよいよ手に負えなくなった先方から電話が入り、母がリヤカーをひいて迎えに行ったのも一度や二度の話じゃない。


 その一方で、自分の健康のためにならちっともお金も時間も惜しまなかった。

 固い板の布団と木の枕で眠り、怪しげな数々の器具を使って早朝から健康体操。

 玄米食と手作りの青汁、柿の葉茶、温冷浴。

 とある民間療法にのめり込んでいた彼は、これらの習慣をまるで厳粛な儀式であるかのように、毎日きっかり同じ時間に執り行った。


 トクゾウルールはそれ以外でも日常生活全般にわたり、しばしば家族を困惑させた。

 食事ができていてもいなくてもきっかり夕方の六時には食卓につき、母に無言のプレッシャーを与える。

「頼むから、もうちょと待っててくだせえよ」

「いや、別に、ただ座ってるだけだ」

 わかっているのかいないのかわからないとぼけた返事が、野良仕事で極限まで疲れ果てた母の神経を逆なでする。

 実際、彼に悪気はなかったのかもしれない。けれど少しはこっちの気持ちも考えてくれないかと、そう言いたくなるような場面が山ほどあった。

 祖父のこだわり。母のイライラ。父のため息。家の中の空気は、いつも張りつめていた。


 そうするうちに母が六十手前で急逝。誰もがトクゾウに苦労させられすぎたのだと嘆いた。


 何もかもが極端で、一方的で、そしてずれていた祖父。

 最後は入院先の病院で看護婦さんたちの手をさんざん焼かせたあげく、食事を喉に詰まらせて八十九年の生涯を終えた。



 それからもう十数年。孫であるわたしたちの中でも生々しい怒りはとっくに消え失せて、あらゆるエピソードは笑い話の域に達している。


 先日も昔話をしているうちにトクゾウの話題になり、兄がふとこんなことを言った。


「そういえばさ、じいさん、『死にたい』って言ってたことあったんだよな」

「へ?」


 聞けば兄が小学生くらいのころだと言う。


 なんだか胸がきゅっと痛くなった。


 実はずっと感じていた、自分はトクゾウにとても似ていると。

 強いこだわりや秩序に対する過度の執着、人の気持ちのわからなさ。そこから生じる人間関係の難しさ。


 思ったままを口にするとなぜか怒られる。人にとってはあたりまえのことが、なぜだか自分にはわからないのだ。


 誰にも理解してもらえないまま周囲との関係はこじれ、自信を失い孤独に苦しみ、死んでしまいたいと思い詰めた時期もあった。


 年を重ねるにつれて少しずつ常識的な振舞い方を覚え、相手の気持ちもだんだん推し量れるようになったけれど、そこに至るまでというのは結構しんどい作業で、今でも心の中にはギクシャクしたままの部分がある。



 トクゾウも、やっぱり辛かったのかな。


 そして実は――ものすごく孤独だったんじゃないかな。


 そんな風に思えた日。

 初めて祖父を、ほんの少し近くに感じた。

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