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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
愛をください
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母の死

 家に戻って数カ月が経ち、いよいよ本格的な冬を迎えようとしていたある日のことだった。

 それまで大きな病気などしたことのない母が、急に強い吐き気を訴えた。あまりに何度も吐くので病院に連れて行くと、すぐに手術が必要だという。


「腸にできものがあるから、手術して取っちゃいましょうね」

 医者の説明を聞いて、父は顔を曇らせた。そして母のいないところでこっそりと、「問題は、どういうできものか、だよな……」と呻くようにつぶやいた。

 が、あきれるほどに単純な母は、できものを取りさえすればすっかり元通りになると信じて疑わなかった。入院の前日ぎりぎりまで元気に飛び回り、いろんな人に「明日っからしばらく入院するからさ」と明るく告げながら自身の入院グッズをそろえ、クリーニングやら野菜の配達やらたくさんの用事を精力的に済ませていった。



 手術は無事成功した。

 やはり悪性で、それもかなり進行していたが、とりあえず悪いものはすべて取り除けたという医師のことばに、わたしたちはホッと胸をなでおろした。


「早く治して早く家に戻らなきゃな」

 少し動けるようになると母はそう言って、傷の痛みに顔をしかめながらブルドーザーのようにリハビリを始めた。

 胃を手術してからまだ本調子とは言えない父と、一筋縄ではいかない祖父、もちろん畑のことも気になっていたのだろう。

「この分じゃあ、早く退院できそうだね」

 姉とそう笑い合った。


 ところが手術から2週間ほど経ったある日、朝早くに病院から電話がかかってきた。

 聞けば、母が急にしゃべらなくなったという。

 鬱の症状かもしれないから、ご家族の方に来てもらいたい、と。


 慌てて駆けつけると、母は目を開けてベッドに仰向けになったまま、呼びかけても返事をしない。

 付き添いを頼んでいたヘルパーに聞くと、歩いてトイレに行ったあと、病室に戻る途中で急に黙り込んだのだという。


「何かお母さんの気に障ることがあったんでしょうか」

 ヘルパーもナースも、母が拗ねて黙り込んでいるんじゃないかと言う。あれこれ話しかけてみたが、母は一向に口を開こうとしない。

 そうするうちに開いていた目が半開きになり、いびきをかき始めた。


 しばらくして、医師がやってきた。

 と、急に動きが慌ただしくなり、母はそのまま個室に移された。何が起こっているのかわからないまま、おろおろするだけのわたしたち。

 やがて医師からの説明があった。

「おそらく、脳に何かのできごとがあったんだと思います。しばらく様子を見ましょう」

 あまりに突然の展開に、わたしたちは動揺を隠せなかった。


 母はモニターをつけられて眠り続けていた。

 急を聞いて飛んできた兄と姉も、一緒にベッドに寄り添う。

「まったく、頑張りすぎなんだよ、母ちゃんは」

「早くよくなって家に帰んなきゃって思ってたんだろうけど……」

 3人でそんな話をしていると、半開きの母の目から、涙がつつーっと流れ落ちた。

「……これ、絶対聞こえてるよね?」

「うん。動けないだけで、ちゃんと聞こえてるんだよ、きっと」

「母ちゃん、全部わかってるんでしょ? ホントは、何か言いたいんだよね?」

 が、3人でいくら話しかけてもただ涙を流すだけで、母の体は動かないまま。


 溢れるほどの想いがあるはずなのに、それを伝える術を失ってしまった母の無念。それをどうしてやることもできないもどかしさに胸を痛めながらも、わたしたちはただ声をかけ続けることしかできなかった。



 夜になり、特に変化がないことを見届けて、姉たちは一旦自宅に戻っていった。

 頼むから、早く目を覚まして。

 祈るような気持ちで、父と一緒に母の手をさする。


 とそのとき、何の前触れもなく、母の血圧が下がり始めた。

 急いでナースを呼ぶ。

 一気に慌ただしくなる病室。

 医師が駆けつけ、わたしたちは病室の外に出された。

 ついさっき帰ったばかりの姉たちに電話をし、両手を固く握り締めて、開け放たれたドアからことの成り行きを見守る。


 が、そんなわたしたちの目に入ってきたのは、病室の奥でみるみるうちにフラットになっていくモニターだった。

 嘘だ、と声にならない声で叫ぶ。

 電気ショックが与えられ、母の体が不自然に大きく跳ね上がる。

 何度も何度も、それが繰り返された。


 しかし母はとうとう、意識を取り戻すことはなかった。



 あまりに急で、あっけない最後。



 母の死を告げられた瞬間、父は人目もはばからずに泣き崩れた。

「俺を置いて、逝っちまいやがった……!」


 初めて見た父の涙。あの悲痛な声は、20年以上経った今でも忘れられない。




 葬儀の日は、何年ぶりかの大雪だった。


 うっすらと紅がひかれた母の唇。

 憔悴し切った父のあいさつ。

 空に昇っていく焼き場の煙。

 あとからあとから込み上げてくる涙。


 まだ50代だった母の死を、誰もが早すぎると嘆いた。

「じいさんに苦労かけられ過ぎたんだよ」

「もっと大きい病院だったらねえ」

「あの人のことだから、頑張りすぎてきっと血圧上がっちゃったんだな」

 どれももっともだと思えたが、そうだとしても、もう母が帰ってくることは決してないのだ。


 母を失うことがこんなにも寂しくて心細いとは、ほんの数カ月前までは思いもしなかったのに。

 ようやく手が届いたと思った温もりは、目の前をかすめただけで、あっという間に消え去ってしまった。

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