母との和解
夏が過ぎリゾートホテルでの住み込みの仕事が終わると、住む場所のないわたしは実家に戻るしかなくなった。
すでに兄の家族は同居をやめており、両親と祖父、そしてわたしの4人の生活が始まった。
確かその頃だったと思う。教会の人に勧められ、心療内科に通いはじめたのは。
そこは、前線を走れなくなった信者たちがやってくる、教会関連の小さなクリニック。
前もって書いた自分史を持っていき、いくつかの心理テストを受け、それから先生と2人で話した。
どういう言葉だったか正確には覚えていないが、わたしが描いた木の絵を示しながら言われたのは、「親子の関係ができていない」というようなことだった。家庭が子どもにとって安心できる場所でなかったのではないか、と。
ああ、やっぱり、と思った。
自分には土台がない。何か一番大事なものが、欠落してしまっている。
ずっとそう感じていた。
どこで何をしていても、自分がいるべき場所ではないように思えて仕方ない。
根なし草のような心。
その想いがどこから来るのかが、ずっと知りたかった。
断片的な知識からぼんやりと、親子関係に問題があるのではないかと思ってはいた。
が、改めて専門家の口からそう言われると、妙な安堵すら感じられた。と同時に、この年になっても土台さえできていない自分がこの先いったいどうやって生きて行けばいいのかと、底知れぬ不安にも襲われた。
先生は言った、できたら一度親御さんとも話がしたい、と。
あきらめ半分で母に話してみると、意外なことに診察についてきてくれるという。
次の診察日、一緒にクリニックに足を運んでくれた母は、先生からわたしの状態について説明を受けている間中、憮然とした表情を崩さなかった。
「お母さんから、何かありますか?」
そう問いかけられて、ようやく開いた口から出てきたことば。
「どうしてこんな……この子には、何も不自由させてこなかったはずなのに……」
それを聞いた瞬間、カッと頭に血が上り、黙っていられなくなった。
「なんで? どうしてわかんないの?」
確かに、飢えたことはない。
着るものはお古ばっかりだったけど、毎日きちんと洗濯されていた。
学校で必要なものは、必ずちゃんとそろえてくれたし、おまけに大学まで行かせてくれた。
わかってる。
感謝こそすれ、文句をいうべき筋合いじゃない。
でも。
母が心を砕いていたのは、全部、目に見えるものばかりだったじゃないか。
見えない心の不自由さなど、これっぽっちもわかろうとしてくれなかったじゃないか。
張りつめた硬い空気のあの家で、ずっと息苦しさを感じていたことも
いつも不安で寂しくて、ただぎゅっと抱きしめて欲しかったことも
学校でいじめられてたことも
手首を切ったことも
薬を飲んだことも
ほんとは20歳で死のうと決めてたことも
何も、気付かなかった癖に。
「わたしがこうなったのは、親のせいだ。そうですよね、先生!」
わかってよ、と叫ぶ代わりに、わたしは母を責め立てた。
「い、いや、そういうことではなくて……」
先生は、なんとかその場を収めようとする。が、わたしは躍起になって親の非を認めさせようとした。
「だって、そうでしょ? 親子関係に問題があるって、そう言ってたじゃないですか!」
母は拗ねた子どものように口をとがらせながら、そのやりとりを聞いていた。と、その頬をつつーっと幾筋かの涙が流れた。
「なんだよ、そんなこと言われたって……母ちゃんだって、一生懸命頑張ってきたのによ……」
ああ。
結局、これか。
本当は、ちょっとだけ期待してた。
もしかしたら、今度こそ、わかってくれるんじゃないかって。
ずっと辛い想いをさせて済まなかったと、謝ってくれるんじゃないかって。
バカみたい。
この人に受け止めてもらおうなんて、しょせん無理だったんだ……。
怒りに満ちてはちきれそうだった体中の力が、ふーっと抜けていく。
何を言う気も起きず、ただ、終わったんだと思った。
静かなあきらめが、ひたひたと寂しく満ちていく。
そうしてわたしの心の中から、一切の期待がきれいさっぱり消えていった。
いっそ清々しいほどに。
そのできごとを境に、わたしと母の関係は変わっていった。
不思議なことに、母が何を言っても腹が立たなくなった。
こういう人だからしょうがない、そう思うだけ。
おそらくわたしは、本当の意味で、母に何も期待しなくなったのだ。
すると皮肉なことに、わたしたちの関係は急速によくなっていった。
常に2人の間にあったとげとげしい空気は消え、時に冗談や軽口も飛び出すようになった。そうなると、母の度が過ぎるほどの単純さも、可愛いものだと思えてくる。
そう、母はとても単純な、子どものような人だった。
相手の気持ちを考えないから無神経な言動も多かったが、その代わりに裏表もなかった。母が言うことはすべて本音。だから敵も多い代わりに、信頼してくれる人間も多かった。
そして母はいつだって、子どものように一生懸命だった。
わかっている。
朝は誰よりも早く起き、掃除も洗濯も決して手を抜くことをしなかった。苦手な料理も文句を言われながらも作り続け、畑仕事でどんなに疲れていても、学校で必要なものは必ず用意してくれた。
夜は家計簿をつけながら、必ず途中で居眠りをしてしまう。
もう、くたくただったのだ。
けれど、家族のためにくたくたになるまで動き続けることを、決して厭わない人だった。
ただひとつ母に欠けていたのは、包容力。
それは、愛情をひたすらに求める幼い子どもにとっては、何より辛いことだった。
が、そんな母も、自分を包んでくれるはずの親でなく、ひとりの人間としてだけ見てみれば、充分可愛くて面白い、魅力的なおばちゃんだったのだと思う。
母の愛をあきらめたとき、ようやくわたしは母をそういう目で見られるようになったのだ。
それからの数カ月は、わたしたち母子にとって、最も穏やかな時間だった。
わたしは家から派遣の仕事に通い、ときおり会社の近くのベーカリーで、焼き立てのパンを買って帰った。
「おいしいなあ」
母の子どもみたいな笑顔。
それを見ながら思った。
この人とずっと一緒にいるのも、悪くないな。
そんな気持ちになったのは生まれて初めてのことで、まさかそのすぐ後に永遠の別れが待っているなんて、そのときのわたしは夢にも思わずにいた。