ひと夏の恋
両親は、当初から教会のよくない噂を聞いていて、わたしが信仰を持つことに反対していた。
結婚の報告をしたときも、母は予想通りわたしをなじり、父は悲痛な表情で「もしかしたらそうなるんじゃないかとは思ってたんだ」と嘆いた。
家族の絆を感じていたわけでも、本当に救いたいと思っていたわけでもない。家族を伝道することが信者としての義務だったから、反対されても愛する努力をし続けた。
まめに帰省していたのも、渋る結婚相手に頼み込んで挨拶に来てもらったのも、そのためだ。
が、意外なことに、母は彼のことがいたく気に入ったようだった。
「教会には反対だけど、この人は悪くないな。優しそうな顔してるじゃないか」
そう言って、嬉しそうに笑った。
父は父で、怒鳴るでもたしなめるでもなく、ただ黙って彼を受け入れた。
とてもじゃないが、上手くいっていないなどと口にすることはできなかった。
長い休みが終わり、留学先に戻ってしばらくすると、珍しく父からエアメールが届いた。
胸騒ぎを覚えながら封を開けると、白い便せんに並んだ不器用な文字。
「手術することになった。すまないが帰ってきてくれないか」
わたしは慌てて上に相談し、日本に帰らせてもらうことにした。
父の病気は胃癌だった。
本人には、告知していないという。
姉も兄も結婚していて子供もまだ小さく、自由に動けるのはわたしだけ。自然の成り行きで看病を任されることになり、母と交代で病院に付き添いながら家事をこなした。
家族が大きな病気をするのは初めてのことで、わたしは内心すっかりうろたえていた。付き添っていても何をしていいかわからず、父とどう接していいかもわからない。手探りのまま、ひたすら自分にできることを探す日々。
幸い手術は成功し、ひと月ほどで父は無事退院した。が、これを機に兄夫婦が同居することになり、わたしは再び家を出た。
ちょうどその頃教会では、留学というプロジェクトが終わりを迎えようとしていた。
留学生の中には、新しい家庭を持つ準備に入る者も、家族を伝道するために故郷に帰る者もいた。日本での拠点だった場所も、近々なくなる予定だという。今までのような集団生活という括りが消え、新しく築かれる個々の家庭に重点が移っていく時期だった。
けれども、わたしと結婚相手との関係は相変わらずで、彼と一緒の未来など思い描くこともできない。そんな中途半端な状態で、家に戻るわけにもいかなかった。切羽詰まって派遣先で出会った友人とルームシェアもしてみたが、上手くいくはずもない。
わたしは再び居場所を失っていった。
そんなとき、夏季限定のリゾートホテルの仕事を紹介された。
ホテルの宴会場の派遣スタッフで、寮が完備され時給もかなりいいという。「初心者でも大丈夫ですよ」とのことばに、行くあてのないわたしは飛びついた。
しかしいざ始めてみると、1日12時間以上立ちっぱなしの体力的にもきつい仕事で、おまけに現場の状況に合わせて臨機応変に動かなければならない。わたしが一番苦手とすることだ。
毎日ガチガチに緊張し、叱られながら料理を運び、ひきつった笑顔を張りつけて空のビール瓶を片付けた。
案の定、何週間かするうちに、わたしの体は疲れとストレスでボロボロになっていった。吐き気と胃の痛みが治まらず、とうとう立っていることもできなくなった。
少し休ませて欲しいと持ち場を抜けだし、更衣室で横になっていると、「小日向いるか?」と声がした。ズカズカと入ってきたのは、いつもわたしにダメ出しをしてくる派遣の男性だった。
返事もできないままぐったりと横たわる。
「病院いくぞ。立てるか?」
と言われ、なんとか立ちあがろうとするが、どうにも力が入らない。ふっと崩れ落ちるわたしの体を、逞しい腕が支える。
思わず胸がときめいた。
そのまま病院に連れて行かれ、十二指腸潰瘍の診断を受けた。
結局、宴会場の仕事を続けることはできず、わたしはすぐ近くの別のホテルで、事務のバイトをすることになった。
それ以来、その男性と2人きりで会うようになった。おそらく彼は、不安定で危なっかしいわたしを放っておけなかったのだと思う。
彼はよく言った。
「俺はな、女は弱いものだから、守ってやらなきゃいけないと思ってる」
そのことばを聞くと、もっと甘えていいんだとよ言われているようで、思わず泣きそうになった。
彼の強さと優しさは、わたしがすっかり失っていた自信を少しずつ取り戻させてくれた。彼といるときだけは、自分には大切にされる価値がある、そう思えるのだった。
そうやってわたしは、結婚相手との関係でズタズタになっていた心を、少しずつ修復していった。
もちろん教会の教えからしたら、それは大きな罪だった。
おまけに彼には、妻子があった。
どちらにしても先のない関係。
が、彼に傾いていく気持ちを、どうすることもできない自分がいた。
強力な磁力に絡め取られる心。
いつしかわたしは口に出していた。
「ずっと一緒にいたい」
彼は静かな声で言った。
「自分は家庭を壊す気はまったくないんだ」
そう、最初からわかっていたのだ。
この恋は、何処にも行きつくことはないのだと。
やがて秋風が吹き始めるころ、わたしたちはそれぞれの故郷に戻った。
秋から冬に向かっていく季節の中で、煌めく思い出に泣き濡れて過ごした、耐え難い幾つもの夜。
けれども、狂おしいほどの恋慕の中で、いつしかわたしはゆっくりと歩き出そうとしている自分自身に気がついた。
どのくらい経った頃だろう、一度だけ電話をしてみたことがある。
彼はたいそう驚いていたが、以前と同じ明るい声で言った。
「今は、毎日汗だくで働いてるよ。いずれ自分の工場を持とうと思ってな。
俺も頑張ってるから、お前も、頑張れよ」
わかった、と返事をしながら感じた、寂しさと、そして胸の奥にほんのり残った温もり。
受話器を置いて思った。
わたしに必要だったのは、目に見えない神様なんかじゃなくて、目の前で温もりを与えてくれる人間だったんだ、と。