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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
トンネルの先に待っていたもの
34/60

結婚

 さらさらと流れる髪に長い脚。

 目尻の下がった優しげな笑顔。

 まるで王子様のような彼の風貌は、世慣れていない信者を舞い上がらせるのには充分すぎるほどで、そのときのわたしには、彼がまったく別の顔を持っているなんて想像すらできなかった。


 出会った日の極上の笑顔を思い出しながら、うきうきと胸を弾ませ服を選ぶ。慣れない化粧に照れながら何度も鏡を見直して、いそいそと出かけた。

 こんな華やいだ気分は、本当に久しぶりだ。


 待ち合わせ場所に現れた彼は、なぜかとても不機嫌そうだった。疲れているのかと思ったが、そうではないのはすぐわかった。わたしを見る彼の目が、この間と違って驚くほど冷たかったからだ。


 喫茶店のテーブルにつくと彼は、わたしに何も聞かないままに「コーヒー2つ」とオーダーをした。

 凍るような沈黙。わけがわからず、ただぎゅっと身を縮める。


 互いに身じろぎもしないまま、10分ほど経っただろうか。

 おもむろに彼が口を開いた。

 感情のない、低い声。

「あなたは、女らしくない。あなたとは、話をする気になれない」


 冗談でも何でもない。ぞっとするほど端的に語られたそのことば。わたしは冷水を浴びせられたように、その場で固まってしまった。


 彼は苦痛に顔を歪めながら続けた。


「あなたを紹介されてから、ずっと悩んでいました。でも、努力してみるように言われたので……もう少し頑張ってみることにします」


 唇が震えるばかりで、声も出ない。

 バカみたいに浮かれていたのは、わたしのほうだけだった。

 膨らんでいた心が、無残なほどぺしゃんこに押しつぶされていく。


 彼は不機嫌そうにコーヒーを飲み干すと席を立ち、あごをしゃくって「ついてこい」というような仕草をした。怯えながら、慌ててその背中を追う。


 彼が向かった先は、美容室だった。

 愛想笑いを浮かべて出てきた美容師に、彼は何か注文している。

 能面のような化粧の美容師は、わたしの無造作なショートヘアに容赦なくパーマをあて、スプレーで固めてきっちりとセットしていった。続いて、元の顔がわからないほどの濃いメイクが重ねられていく。眉を整え薄くルージュをひくのがせいぜいだったわたしの顔は、まったく別のものに作り替えられてしまった。


 彼はさっさと支払いを済ますと、こんどはすぐ隣のブティックにわたしを連れていった。

 店員が持ってきたのは、胸元を広く開けウエストをきゅっと絞った、セクシーなデザインの膝上丈のワンピース。こんな胸の開いた服は、教会ではご法度のはずだ。が、彼はそれを見て満足そうに頷いている。

 試着してみると、鏡の中の自分はまるで娼婦のように毒々しく見えた。胸元も膝も、長いこと人目にさらしたことがなかったせいか、裸でいるような居心地の悪さを覚える。

 恐る恐る試着室から出ると、店員がウソ臭い笑顔を向けてオーバーに言った。

「よくお似合いですわ」

 彼はまた黙って支払いを済ます。



 別人のように作り上げられたわたしを連れて彼が向かったのは、彼の上司の家だった。やはり信者同士の結婚で、奥さんは日本人だという。

 着いてみて驚いた。

 新築のマンション、広々としたリビングにモダンな家具、高級そうな食器。

 日本で信仰生活を送るわたしたちに許されていた財産は、カラーボックスひとつと衣装ケース2つ分だけだったのに。

 貧しくても、清く正しく美しく。

 そんな今までの生活をすべて覆すような暮らしに、わたしは戸惑いを隠せなかった。



 上司の奥さんは、可愛らしくてほんのり色気のある女性だった。きれいに巻かれた長い髪。アイラインを強調したメイク。体のラインを強調するような服。その笑顔は、男に媚びているようにさえ見える。

 日本の教会では決して許されないであろうことばかり。国が違うとこんなにも信仰観が違うのか。


 彼がわたしに押し付けた髪型もメイクも服装も、すべてが彼女とリンクしていた。彼は、私をこの人のようにしたかっただけ。本当に手に入れたかったのは、わたしではなくこの女性なのだ、と思った。

 その証拠に彼は、夫人と話しているときだけはとろけそうな笑顔を見せた。


 腹の底に、冷たい塊がずんずんと沈みこんでいく。

 自分という存在を、すべて否定されたような気がした。





 それからも彼は、何日かおきにわたしを突然呼びだした。

 彼は必ず先に来ていて、無表情のまま歩きだす。そして喫茶店に入り、コーヒーを2つ注文し、無言のままわたしを冷たく眺めまわす。


「あなたは、本当にセンスが悪いね」


「わたしが怖い? あなた、わたしのことが嫌いでしょう?」


「わたしはね、あなたのこと、別に好きじゃないんだよ。好きになれない」


 吐き出すような口調で言われるたび、心がズタズタになっていく。なのに彼は、会うことをやめようとはしない。


「あなたは怖いけれど、嫌いではありません」

 震える声で、言ってみたことがある。すると彼は、ふっと皮肉な笑みを浮かべた。

「それは、嘘だ」

「どうして、そう言えるんですか」

 口答えした瞬間に彼の表情は険しさを増し、白い肌が怒りですっと青ざめる。

 体が硬直した。

 一刻も早くここから逃げ出したい。

 けれど彼は、わたしが席を立つのを決して許さなかった。


 そんなことが1週間に1度か2度、延々と繰り返された。

 しまいには、彼のことを考えるだけで呼吸が苦しくなった。


 あるとき、とうとう耐えきれずに言ったことがある。

「そんなにわたしが気に入らないのなら、他の人と結婚すればいいでしょう」

 すると彼の白い肌は、以前にもまして青ざめていった。


 わかっている。

 教会で決められた相手と別れることは、神への裏切りなのだ。それは、破門に値するほどの罪とされていた。

 わたしたちは2人とも相手の存在を忌々しく思いながらも、その一点のためだけに、離れることができなかった。



 数ヵ月後、そんな冷たい関係のままで、わたしたちは入籍することになった。彼に対し、同居ビザを手に入れて日本で仕事をするよう上から指示があったのだ。


 こうして何の愛情も希望もないままに、わたしたちは形だけの夫婦となった。

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