留学
言いようのない孤独感に苦しみ続けた10代の頃。
ブラックホールのような心を持て余しながら、いつも考えていた。
人はみなわたしと同じように、自分自身の欠落を埋めることで精一杯なのだ。
誰もが愛をくれと必死に叫ぶばかりで、与える余裕のある者などいはしない。
だとするならばこの孤独は、永遠に満たされることはないのだ、と。
そこに差したかすかな光が、「神」という概念だった。
生身の人間を超えた存在ならば、この果てしない空洞を埋めてくれるかもしれない。
そしてわたしは、実体のない存在を求め始めた。
いつまでたっても神に出会うことができないわたしに、彼らは言った。
「神はいつでも、今でもあなたを愛しています。それを感じられないのは、神に愛されていないからではなく、あなたの感性が麻痺しているからですよ。それを磨くためには、すべてを神のために捧げて努力し続けることです」
そう言われれば、自分はまだ努力が足りないのだと思うしかなかった。
当時使っていたノートに、こんな詩が綴られていた。
愛されたくて
ただ愛を受けたくて
自分自身を抱きしめて
ずっとうずくまって待っている
自己愛は鎖
身動きもできず
孤独な心を忘れたくて
まとわりついて
まとわりついて
がんじがらめになっていく
自分自身を忘れてごらん
自分じゃあない誰かのために
死ぬほど傷ついてごらん
身も心もズタズタになって
それでもまだ 愛し抜いてごらん
自分 自分 自分
からみつく自己愛を振り切って
走り続けるんだ
自分自身を抱き締める代わりに
神の心情をその胸に抱えて
熱い涙を流したその時に
君は初めて
二十二年間の呪縛から
解き放たれるだろう
とことん自分を追い詰めて限界を超えたなら、神の愛に満たされて孤独から解放される時が来る。そう信じて、走り続けようとしていた。
けれど、ギリギリにまで追い詰められるといつも、我慢できずに逃げてしまう。そんなことを繰り返した。
神の愛がわからないのは、わたしの弱さのせいだ。
寂しいままなのは、わたしが我慢の足りない根性無しだからだ。
いつもそうやって、自分を責め続けた。
そんなわたしに残されたわずかな希望が、教会内での結婚だった。
神を信じる男性ならば、大きな心で幼いわたしを支えてくれるのではないか。一人では越えられなかったことも、二人なら乗り越えられるのではないだろうか。
そして、神が本当に愛ならば、わたしが生き残る道を与えてくれるのではないだろうか。
留学後、ほどなく上からお達しがあり、とうとう相手が決められることになった。留学生に関しては、特別に信仰基準が緩くなるという。
果たして、わたしもその対象に入っていた。
期待に胸が高鳴った。
紹介されたのは、教会関係の会社に勤める現地の男性だった。すらりとした長身ですっきり整った顔立ちのその人は、目が合うとにっこり微笑みかけてくれた。
まともな信仰生活を送ってこなかったことは、自分自身が一番よく知っている。だから、そのツケが回ってきてとんでもない相手が選ばれるのではないかと、内心びくびくしていたのだ。
なのに神は、わたしにこんな素敵な人を与えてくれた。
まるで、夢のようだった。
けれどそれが夢でなく悪夢の始まりになるとは、そのときのわたしにはまだ知る由もなかった。