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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
トンネルの先に待っていたもの
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アルバイト

 家に帰りたくはなかった。

 でも、もう行くところなどなかった。


 そもそも教会に入る前から、わたしには居場所などなかったのだ。


 受け入れてくれるところなら、どこにでも流れていく。そんな自分の弱さにも、薄々気がついてはいた。わたしは、居場所を作るために、そして誰かから愛を受けるために信仰生活を送っているふりをしていたに過ぎない。

 だからそこから抜けだそうとした瞬間に、空っぽな自分を目の前に突き付けられたのだった。



 親には逃げ出してきたとは言えず、ただの帰省のフリをして、1週間ほどぶらぶら過ごした。結局その間に寮母から連絡があり、今後の身の振り方を話し合うことになった。


 寮生活が厳しいなら、家族を伝道するつもりでそのまま家にいたらいい。近くの教会に通って、アルバイトで献金しながら信仰を持ち続けたらどうか。


 自分で飛び出しておきながら、とうとう見放された、と感じた。

 けれど、他にどうすることもできなかった。




 とにかく、このまま何もせず家に居続けるわけにはいかないことだけはわかっていた。それを許す親ではない。

 まずは、働かなければ。



 求人雑誌と首っ引きで、何の資格もスキルも経験もない自分でもできそうなバイトを、手当たりしだい探した。

 最初は短期で、軽作業などの仕事を転々とした。そのあとは、交通警備。


 どこに行っても、それなりの大学を出ていると知ると怪訝な顔をされた。どうして就職しなかったのか、と。

 何も答えることができず、「いろいろとやりたいことがあって」と言葉を濁した。



 交通警備のバイトは一番きつかった。

 バッグからはみ出した誘導棒、足元の安全靴、そしてヘルメットの跡がくっきりとついた髪。曲がりなりにも20代の女性がその姿で通勤電車に乗るのは、ひどく恥ずかしいことだった。現場には更衣室などないから、近くのビルでトイレを借りて制服に着替えた。

 おまけに季節はちょうど冬。冷たい雨でも強い風でも、一日中屋外に立ち続けなければならない。手はかじかみ、足は寒さに痺れ、肌はガサガサに荒れた。

 基本的に女性は交通量の少ない場所に回してもらえるのだが、それはそれで辛かった。変化がない分、時間の流れがひどく遅く感じられるのだ。ずいぶん経った気がするのにまだ5分、なんてことはざらだった。


 一番耐えがたい拷問とは痛みを与えることでなく、一切刺激のない場所に閉じ込めることだ、と言われるのが、よくわかる気がした。


 人通りのない現場に立って、時間をやり過ごしていると、どうしようもない虚しさが襲ってくる。

 今日も、明日も、明後日も、こうやって過ごしていくのだろうか。

 いったい自分は、何のために生きているのだろう。


 そんな想いが絶頂に達したちょうどその頃、寮母から連絡が入った。

「留学生に、ならない?」

 と。


 以前から、大卒の信者が留学生として他国で活動しているのは聞いていた。そのメンバーにならないか、というのだ。

 過酷な環境だけれど、今までの負債を一気に清算できるチャンスでもある。

 虚しい毎日に限界を感じていたわたしは、不安を感じながらもその話を受け入れてしまった。




 留学のためには、ある程度まとまったお金が必要だった。そのために、また訪問販売のチームが組まれ、ワンボックスカーでの過酷な生活が始まった。


 やらねばならないことだとわかっていた。

 頭では、だ。


 が、わたしの心はもう、そういったことにすっかり耐えられなくなっていた。


 半月もすると、一日中じりじりと胃が痛み、吐き気に悩まされるようになった。背中にも鈍い痛みが襲ってくる。まともに食べることができなくなり、どんどん体重が減っていった。

 車を下ろされても途中で耐えられなくなり、時間前に回収されることが続いた。

 過呼吸の発作を起こし、救急車で運ばれることもあった。


 病院で下された診断は「十二指腸潰瘍」。

 口で嫌だと言えない代わりに、体が訴えたのだ。



 治療のためしばらく休んでからは、特例としてアルバイトで稼ぐことが許された。

 そして数ヵ月後、無事留学費用を貯めたわたしは、予定通り他のメンバーと留学先へ出発したのだった。

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