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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
トンネルの先に待っていたもの
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再びの逃亡

 大学を卒業した信者は、特に問題がなければ、献身者として教会の仕事を生業として生きていくことになる。

 わたしは、信仰が足りないせいで献身者になれず、かと言って、社会に出ることも自他ともに不安視されていた。それで卒業後も1年間、宙ぶらりんの立場で寮に残されることになった。


 問題児だったわたしは、人一倍寮母と接する機会が多かった。寮母とは読んで字のごとく寮の母親役を担う女性で、悩んでいたり疲れていたりする信者の話を聞き、慰め励ますのも大事な役割だった。いつもニコニコと笑顔で話を聞いてくれる寮母は、苦しい信仰生活の中でのささやかなオアシスでもあった。

 わたしが悲観的な考えに捕らわれていたり、何か問題を起こしたりすると、お茶とお菓子をこっそり用意して「冬子ちゃん、ちょっと話しようか」と部屋に呼んでくれる。ほのかな温もりに浸りながら、自分の想いをぽつりぽつりと口にした。

 寮母のことばはいつも、教えに沿ったものでありながらも柔らかく優しかった。小さな子どもに母親が言い含めるように、相手に合わせて噛み砕いてくれる。

 わたしがマイナス思考に陥りがちなことに対しても、「冬子ちゃんにはそういうものを越えていく大きな使命があるのよ」と言って、にっこり笑ってくれた。そう言われると、自分の悩みも少しは意味があるように思えた。



 ちょうどその頃、教会内での結婚の話が持ち上がっていた。何年かに一度、適齢期となった信仰の篤い信者たちに結婚相手が決められるのだ。

 年齢的には、わたしはすでにその対象になっているはずだった。もちろん信仰のない自分にはきっと無理だろうとほぼあきらめてはいたが、心の奥でほんのかすかな希望を抱いていたのも確かだ。

 自分の苦しみを一緒に背負ってくれるパートナーがいたら、どんなにいいだろう。そうしたらわたしは、もう少し頑張れるんじゃないか、と。

 いつ、どのようなかたちで対象者が決まるのかも定かではなく、信者間でもさまざまな憶測が飛び交うばかり。教会全体がそわそわしていた。


 そんなある日、寮母に用事があったわたしは、廊下の突き当たりにある彼女の部屋を尋ねた。開け放したそのドアに近付いて行ったその時、電話で話している寮母の声が聞こえてきた。

「……冬子ちゃんは、無理ですね。あの子は、幼すぎます……」


 息が止まりそうだった。


 あなたには大きな使命があるといって微笑んでくれた寮母が、その口でわたしを幼すぎると切り捨てるのか。頑張っているねと励ましながら、腹の中ではそんな風に思っていたのか。


 客観的に見たら、彼女がそう言うのは当たり前だった。でも、わたしの前ではずっと、それをおくびにも出さずにいたことが、どうしても許せなかった。


 嘘つき。


 唯一信じていた人間に裏切られた。そんな気持ちでいっぱいだった。



 わたしはすっかり心を閉ざし、不信と憂鬱に深く沈んだ。

 彼女はそれがなぜかわからず、いつものように話をしようと言ってきたが、わたしはあくまでそれを無視し続けた。


 手をこまねいた彼女が提案してきたのは、厳しいことで有名な献身者向けの研修会だった。

「冬子ちゃんにとって、転機になると思うよ」と言われ、気は進まなかったけれども、渋々承諾した。そもそも信者に拒否権などないのだ。



 その研修会は、噂どおりの厳しい場だった。行いのすべてが、教えにのっとっているかどうかチェックされる。

 たとえば、レクリェーションのバレーボールでは、プレイのすべてが、信仰に対する姿勢の表れだと解釈されるのだ。

 ボールが変な方向に飛んで行けば、「あなたの神に対する中心性がずれているからよ!」と叱責され、自分の守備範囲のボールがとれなければ「信仰生活において自分のやるべきことをやってない!」、逆に他人の範囲のボールに手を出せば「自分の位置を離れてる!」と。

 バレーボールだけではない。講義も掃除も食事の配膳も、廊下の歩き方でさえもそういう見方をされるので、起きている間は常にぴりぴりと神経をとがらせていなければならなかった。


 やはりここでもわたしは人一倍注意をされた。

「あなたは我が強い」

「自分を捨てていない」

 1日中そんなことを言われ続け、頭がおかしくなりそうだった。


 そんなことが何日も続くうち、選挙のときと同じ精神状態が襲ってきた。

 班長がそばにいるだけで、頭の中が真っ白になっていく。

 まずい。

 焦りながらも、心はどんどん闇に引きずりこまれていく。



 やがてあの時と同じように限界がきて、わたしの心はプツリと切れた。


 気がつくとわたしは、研修所の門を飛び出していた――。




 どうやってお金を手に入れてどうやって帰ってきたのか、まったく覚えていない。気がつくと、教会のフロントサークル用のマンションに隠れていた。


 今度こそダメだ、と思った。


 乗り越えていない課題は、何度でも繰り返しやってくる、と言われていた。

 そんなこと、と思っていたけれど、その通りだった。


 自分は、辛いことがあるとすぐに逃げ出す弱虫だ。

 変なプライドばかり高くて、否定されることに耐えられないのだ。

 だから、いつまでも幼いまま。


 わかっている。


 でも、もう無理だ。

 逃げ癖がついてしまったわたしは、これからも何度でも同じことを繰り返すに違いない。





 絶望的な気分で駅に向かい、公衆電話から寮母に電話をした。


『冬子ちゃん?』


 そんなつもりはなかったのに、彼女の声を聞いた途端、受話器を抱えたまま激しく嗚咽していた。


『冬子ちゃん、どこにいるの。待ってるから、帰っておいで』


 そのことばに、一瞬心が揺らいだ。でも教会に戻ったとしても、待っているのはまた同じ苦しみなのだ。


「……もう無理。もう、家に帰る」


 それだけ言って電話を切ると、ぐしょぐしょと泣きながら電車に乗り込み、逃げるように故郷に向かった。


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