みんないなくなればいい
子どもの頃、ひとりで留守番をしているときに、いつも夢見ていた。
――事故にでもあって、家族全員、死んでしまわないかな。
天涯孤独の身の上になりたかった。
もちろん今は、そう願うこと自体が、どれほど失礼で甘ったれたことなのかわかっている。
でもその当時のわたしにとっては、家族を失うことが唯一、自分らしく生きることができる道に思えたのだった。
明治生まれの祖父と、癇性の母の支配が行き届く家の中。
子どもたちに求められたのは、「規律」と「節制」と「従順」。
毎晩のように母と祖父が言い争い、父はそれを苦々しげに睨む。
子どもたちは息を殺す。
あの頃わたしは、いったい何を感じて生きていたのだろう。
先日、ふと姉に聞いてみた。
「わたしって赤ん坊の頃どんなだったの?」
が、驚いたことに姉は、まったく覚えていないと言う。
五つの女の子が、生まれたばかりの妹に興味がなかったというのか。
それともあの家の空気が、それを許さなかったのか。
放っておかれる赤ん坊。
その光景が、目に浮かぶ。
朝から晩まで農作業に追われ、笑顔を向ける余裕もないままに、ただ合間にせわしなく乳を飲ませ、オムツを替える母。いらだつ舅に、まだかまだかと急かされながら。
時に田んぼのあぜ道で、赤ん坊のわたしは放置され、空を見て泣いていたに違いない。
乳でなくオムツでなく、温かいものを与えてくれる誰かを待ちながら。
食べ物を与えれば、体は育っていく。
服や物を与えれば、生活はしていける。
けれど心は、心を注いでもらうことでしか育たない。
少なくともわたしはずっとあの家で、心が温かいもので満たされる瞬間を求め続けていた。
誰か、こっちを見て、笑って。
誰か、わたしに語りかけて。
誰か、わたしのことが大切だと言って、そして抱きしめて。
今ならわかる。
両親の置かれていた状況も、余裕のなさも。
愛情がなかったわけでは、決してないということも。
それでも。
気がつくと、成長した私は、がらんどうの空き家になってた。
心には、誰も住んでいなかった。
どうやって招き入れたらいいのか、誰も教えてくれなかった。
幸い、その後の紆余曲折を経て、失いたくない相手を得ることができた。
けれど今でも、信じられないような事件が報道されるたびに思ってしまうのだ。
きっと彼らの中には、誰も住んでいないのだ、と。
あのときのわたしのように。