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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
トンネルの先に待っていたもの
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感情鈍磨

 心を込め、誠を尽くす。

 誰かのために生きる。

 そうやって、自身の中に愛を完成していく。


 これらは、教会で生活する中で、ことあるごとに教えられた言葉だ。

 至極まっとうな「いいこと」である。


 が、当時のわたしは、このまっとうな言葉の意味を、まったく理解することができなかった。

 心を閉ざし、他人との関わりを避けて生きてきた結果か、人としての大切な感情がごっそりと欠け落ちていたのだ。


 それまでも、みんなが笑ったり泣いたりする場面で、何も感じない自分に戸惑うことが幾度となくあった。

 だから薄々感じてはいた。

 わたしはどこかおかしい、と。


 教会での集団生活は、そのことをはっきり思い知らされる場でもあった。



 毎朝のミーティングの後には、全員で寮の掃除をする。

「神様のために、心を込めて掃除をしましょうね。心がこもっていないところに、魔が入り込むのです」

 そう言われて、ハタと考える。

 心を込めるというその感覚が、そもそもわからない。意識に上るのは、どうしたら無駄なく動けるかということだけだ。

 誠を尽くすというのは、時間をかけることなのか? それともホコリひとつなく完璧に仕上げることなのか?

 考えれば考えるほどわからなくなっていく。

 わからないから、よけいに不安になる。やれることを全部やっていなければ魔が入るのではないか。そう考えるといてもたってもいられなくなり、最後は綿棒まで使ってサッシの隅の汚れを徹底的に掃除しようとした。

 すると言われるのだ。

「違うのよ、そういうことじゃなくて……」

 その言葉に、わたしはまた途方に暮れる。


 同じようなことが、掃除だけでなく、食事当番や伝道や、あらゆる場面で起こった。

 心を込める、誠を尽くす、そう言われるたびに困惑した。



 夜の反省会では、一日どんな気持ちで過ごしたかを話さなければならなかった。

 期待されているのは、神の愛を実感した話だとわかってはいる。

 が、そんなものありはしない。

 わたしの中に渦巻いているのは、不安や不満や焦りや劣等感ばかり。

 温かく生き生きとした感情はすべて透明な膜の向こう側で、「愛」という言葉など、まるきり他人事としか思えない。

 自分は、神の愛から最も遠いところにいる人間のような気がした。



 人と温かい関係を結ぶことができない自分を、痛く思い知らされた出来事がある。


 同室のアカネが、高熱を出したときのことだ。

 アカネはとても我慢強い女の子で、そのときも「大丈夫よ」と無理に笑顔を作りながら、肩で苦しそうに息をしていた。


 そのようすを冷静に見ている自分。


 彼女のことを嫌っていたわけではない。

 ただ、何も、感じなかったのだ。

 そして、どこか醒めた頭で考えた。

 この場面で、アカネのために尽くすとしたら、何が正解なのだろう、と。


 結果。


「大丈夫? 早く寝たほうがいいよ」

 精一杯の優しい声で言うと、アカネを残してわたしはその場を立ち去った。


 しばらくすると、森田に呼ばれた。

 なぜか、とても怖い顔をしている。


「冬子ちゃん、どうして熱があるアカネちゃんを放っておいたの」

「え? 早く寝たらって言ってあげたけど……」

 森田の顔がますます険しくなった。

「早く寝たら、じゃないでしょ。アカネちゃんね、フラフラしながらお布団敷いてたんだよ。熱があるなら敷いてあげようって、どうして思わないのかな」


 苛立ち混じりの森田の言葉に、わたしは強い衝撃を受けた。

 そうか、普通は、そう思うものなのか……。



 わたしだって、頭では、相手を思いやらなければと考える。

 でも実際には、何の情も沸いてこないのだ。

 アカネの辛さも苦しさも、自分とは関係ない遠いもののようにしか思えない。


 わたしは、そんな自分自身に愕然とした。



 今ならわかる。


 わたしに築けるのは、あの家で見ていたような人間関係でしかなく。

 わたしにできるのは、母がしていたような接し方だけだったのだ。


 心を耕されることのないままに体だけが大人になったわたしには、どうやって人を愛するかなど、思いもつかないことだった。

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