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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
トンネルの先に待っていたもの
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ひとり暮らしの罠

 実家で暮らしていた大学1年まで、わたしはかなり太っていた。

 食卓はいつも祖父と母の怒鳴り合いで、何を食べても食べたような気がせず、空腹感を満たすために、のべつまくなく間食していたからだ。

 が、ひとり暮らしをはじめた途端、面白いように体重が減りはじめた。慣れない自炊で大したものは作れなかったが、それでもバランスのよい食事を心がけていると、それだけで1か月で5キロも痩せた。

 銭湯で体重計に乗るたびに、あの家にいるだけで感じていたストレスを実感せざるを得なかった。


 けれど、環境が変わっても神経症的なところは相変わらずで、何をしていても集中できず、正体のない不安感がついて回った。

 さらに、ショックな事実が明らかになった。

 その学校では、わたしがやりたかったような心理学は学ぶことができない、というのだ。今だったら、前もって調べることもできるだろう。だがその時代には、知り合いの先輩でもいない限り、入学前にそこまで詳しい情報を手に入れる術などなかった。


 すっかり目的を見失い、クラスのたまり場である学食の一角に毎日だらだらと入り浸った。そんなわたしを心配して気にかけてくれる友人もいたが、「下手に関わると面倒くさい」とさりげなく距離を置くクラスメートも多かった。



 そんなある日、クラスの飲み会が開かれたとある居酒屋で、年上の男性と知り合った。

 彼は、すっかりその場から浮いているわたしを気遣い、何かと話しかけてきてくれ、最後は、女の子ひとりでは危ないからと言ってアパートまで送ってくれた。

 そんな扱いをしてもらったのは、生まれて初めてのことだった。


 翌日、学校から帰ってくると、ドアのノブに両手で抱えるほどのバラの花束が下がっていた。

 昨日の彼だ。そういうドラマのようなシチュエーションに憧れるという話を、酔った勢いでした気がする。

 思わず胸が高鳴った。


 が、よく見ると、その花びらはなんとなく萎れて、ところどころ茶色くなりかけている。


 一瞬舞い上がった気持ちはすぐに醒め、惨めさにとってかわられた。このくらいで充分の、安上がりな女だと思われているのだ。

 それに、男は結婚していると言っていた。それが何を意味しているのかは、いくら世間知らずのわたしでも少し考えればすぐわかる。


 なのにわたしは、男を拒絶することができなかった。


 心の真ん中に、ぽっかりと大きな穴があいていた。

 寂しくて不安で、それを埋めてくれさえするならば誰でもいい、何でもいいと思った。不倫が悪いことだとか、本当の愛じゃないとか、そんなことはどうでもよかった。ただがむしゃらに、手に届くものを貪らずにいられないほど、わたしは飢えていた。


 そのくせ男と一緒にいても、ますます寂しくなるばかりだった。

 まるで、喉が渇くあまりに海の水をそのまま飲んで、永遠に渇きから逃れられなくなってしまったかのように。




 そんな不毛な関係に足を踏み入れたころ、森田と名乗る見知らぬ女性が突然アパートにやってきた。大学の枠を超えたサークルを紹介している、と。

 話を聞いてみると、複数の大学の学生が、いろいろな分野を包括的に学べる勉強会を開いたり、スポーツやレクリエーションを楽しんだりしているという。

 これだ、と思った。

 自分は知識も経験も足りなくて、視野も狭い。大学の授業についていけないのもクラスメートから浮いてしまうのも、そのせいだという気がした。


 何度か訪問を受けたあと、わたしは森田に連れられて、サークルで借りているというマンションや彼女が暮らす寮に遊びに行くようになった。そこでサークルの仲間に引き合わされ、そして気がつくと、泊りがけの合宿に参加することを承諾していた。


 彼女を始めとするそのサークルのメンバーたちは、大学の友人たちとはまったく異質の雰囲気を持っていた。

 びっくりするほど飾り気がなく、垢抜けない。

 そして、いつもうっすらと笑顔を浮かべ、不自然なほど相手をほめようとする。

 変な人たち。

 そう思いながらも誘われるまま毎日のように足を運んだのは、クラスメートといるときのような引け目を感じなくて済むのが、とても楽だったからだ。



 そうしているうちにやがて、男の存在は森田の知るところとなった。

 何かと親身になってくれる彼女に、妻子持ちと付き合っているのだとは言えず、言い寄られて困っていると巧妙に事実をぼかした。すると森田はそれを信じて、危ないから寮にしばらく泊まるといい、と勧めてくれた。

 わたしの嘘を信じ込んであれこれ心配してくれる彼女を見ていると、その申し出を断ることなどできなかった。


 そうしてわたしは、はっきりした意志もないまま、ただ強く手をひかれるに任せて、とんでもない世界に一歩を踏み出してしまったのだった。

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