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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
思春期のトンネルへ
20/60

依存

 世の中には、たくさんの依存症がある。

 アルコール、ギャンブル、薬物、買い物、恋愛、仕事、etc。


 原因も、きっかけも、人それぞれだろう。

 が、嵌っていく人の多くは、心の真ん中に何かしら大きな欠落感を抱えているという点で、とても似通っているような気がする。


 自分自身の核となるべき場所に、ぽっかりと空いた穴。


 人間は、そんなアンバランスな状態に耐えられないようにできている、と思う。

 だから、なりふり構わずそれを埋めようとしてしまう。


 たぶんわたしも、そういうタイプの人間だ。

 中学時代に始まった自傷行為もその一種だろうし、過食や、恋愛や、果ては宗教にまで走った時期があった。


 さらに今思うと、受験勉強も、そのひとつだったような気がしてならない。




 高二で大学受験を決意してからというもの、わたしはまるで人が変わったように勉強に打ち込み始めた。


 各科目の、どの問題集を、一日何ページやるのかまできっちりと表にして、進行状況を毎日綿密にチェックしていく。

 電車の中も休み時間もトイレでもテキストを手放さず、睡眠時間も可能な限り削っていった。


 成績が上がり始めると、それが快感となってさらに拍車がかかり、ますます勉強にのめり込んでいく。

 気力と体力の限界までじりじりと自分を追い詰めていく、痺れるような感覚。

 それはある意味、狂気と紙一重の世界だったと思う。


 もちろん、勉強というものがすべてそうだなんて言うつもりは、まったくない。自分を高め、目標に到達するために努力するのは、建設的で素晴らしいことだ。

 ただ、当時のわたしの内面には、前向きな努力とは裏腹の自己破壊のベクトルが、確かに存在していたのも事実だ。



 受験までの一年余り、わたしの頭の中には、いつも数学の公式や英単語や歴史の年号が渦巻いていた。

 それらが抜け落ちてしまうのが恐ろしくて、憑かれたように何度も取り出しては確かめ続けた。


 おそらく、わずかな眠りの間も脳は回り続けていたのだろう、やがて頻繁に金縛りにあうようになった。


 寝入りばなに、ふっと体が堕ちるような感覚になるのが、始まりの合図だ。

 そのまますーっと地面に吸い込まれ、足をずるずると引っ張られた。

 知らない人の顔や、光の玉が見えたりもした。

 金縛りが解けた瞬間、目の前に巨大なトンボの幻が見えた時は、とうとう自分は狂ったんだ、と、かなり本気でゾッとした。

 ずっと後になって、トンボが死者の使いという意味があることを知り、二重にゾッとしたのだが。


 常に何かの公式をぶつぶつ口走り、寝不足でクマを作った足元のおぼつかない女子高生。

 それでも、勉強という大義名分のおかげで、酒やギャンブルのように咎められることは決してなかった。

 それどころか、ぐんぐん伸びる成績に、親も教師も大喜び。


 今ならわかる。

 わたしは、合法的に自分を虐めていただけなのだ。


 虐めて虐めて、とことん苦しんだなら、やっと愛される資格がもらえる気がして。

 倒れるまで頑張ったら、誰かが丸ごとわたしを受け止めてくれるに違いない、と。


 寂しさも不安も、全部勉強に向けた。

 すべてから救われるいつかを、恍惚と夢見ながら。



 結果、わたしは無事第一志望に合格し、たくさんの賞賛と祝福を浴びた。


 でも――――何も変わりはしなかった。


 ゴールしたつもりでいたけれど、相変わらず心は、カサカサに乾いたままで。

 不安も寂しさも虚しさも、どこにも去ってはいなかった。

 それどころか、不自然に揺り上がった振り子は、今度は逆側に大きく振れはじめたのだ。





 卒業式を終え、迎えた春休みは、希望に満ちてなどいなかった。


 宙ぶらりんな自分が、怖い。

 大学が、怖い。

 人生が、怖い。


 忘れていたはずの崖っぷち。

 このまま進んだら、本当に死ぬしかなくなる気がした。



 思い詰めたわたしは、すがるような想いで母校を訪ねた。

 国語を教えてくれていた熱血タイプの教師が、「卒業しても、困ったことがあったら相談しにこい」と言っていたのが、頭の隅にずっと残っていたのだ。

 このまま死んでしまうくらいなら、その前に思い切って話を聞いてもらおう。

 そう心を決めた。


 緊張に震えながら職員室に向かった。

 顔見知りの先生方は、口々に「おお、おめでとう。春から大学生だな」なんて、お祝いの言葉をかけてくれる。

 それに小さく頷き返しながら、熱血教師を目で探す。


 いた。


 その姿を見ただけで、泣きそうになった。

 やっと誰かに、この苦しみを打ち明けられる。


 先生、わたし、生きているのが辛いんです。

 この先、どうしていいかわからないんです。


 心の中で叫びながら、でもいったい、何からどう切りだしたらいいのかわからず、しばらくその場で逡巡した。

 と、先生が、席から立ち上がった。


 今だ。


「角谷先生」

「おお、小日向か!」

 先生の顔が、パッと輝いて見えた。

「第一志望、受かってよかったなぁ」

 角谷先生はそう言って、嬉しそうにニカッと笑う。


 ああ、やっぱり来てよかった。

 そう思った、次の瞬間。


「それじゃあ、これからも、頑張れよ!」


 先生は笑顔のままくるりと背を向けると、スキップでもしそうな軽やかさで、颯爽と職員室を出て行ったのだった。


 え?


 何が起こったのか、わからなかった。

 気がついたときには、ぽつんとその場にとり残されて。


 追いすがることさえも、できなかった――。




 わかっている。先生からしたら、直前まであんなに熱心に受験勉強をしていた生徒が、実は死ぬほど悩んでいるなんて、思いもよらなかっただろう。

 それに当時のわたしは、笑っていても怒っていても、ほとんど表情が変わらなかった。

 だから、合格の報告に来ただけと思い込むのも無理はないのだ。


 が、ありったけの勇気を振り絞って発したSOSが、誰の耳にも届かないまま、吸い込まれるように消えてしまったという事実は、弱っていたわたしを打ちのめすのには、充分だった。





 そのあとの春休みを、どうやって過ごしていたのかは、よく覚えていない。

 数週間後には無事入学式を迎え、大学に通い始めたのだから、少なくとも死ぬ覚悟はできなかったのだ。


 が、その間にわたしの心は、確かにもう一段階(いびつ)さを増していった。


 そしてそれは、やがてとりかえしのつかない人生の大きな空白を生むことにつながっていくのだった。

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