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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
思春期のトンネルへ
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いじめ

 それは、小学校に入学して、最初の国語の時間だった。


 まだいくらか緊張した面持ちで座っている子どもたちをぐるりと見回し、先生は言った。

「それじゃあ、『はい』っていう字を、書ける人!」

 はい、はい、と弾けるような返事をしながら、みんなこぞって手を挙げる。


「じゃあ……小日向さん」

 やった。わたし、字を書くのは、けっこう得意なんだ。


 が、意気揚々と黒板に向かい、チョークを握って書き始めた瞬間。

「えーっ、違う」

「最初は縦だよ」

 一気にざわつく教室。


 え? いったい、何のこと?


 わけもわからないまま、みんなの声が自分を責めてるみたいに聞こえて、思わず泣きそうになった。


 その時、

「そうね、正しい書き順は、こうですね」

 先生が、にっこり笑ってお手本を見せた。


 書き順? そんなもの、知らないよ。

 どうしてみんな、知ってるの?


 あとから知った。

 幼稚園にも保育園にも行ったことがないのは、クラスでわたしだけだった。

 みんなあたりまえのように、正しい書き順でひらがなを習っていたのだ。


 たくさんの、みんなにとっての「あたりまえ」が、わたしにとっては、そうじゃない。

 そんなシビアな現実を、入学直後に思い知らされ、幼いながらにすっかり打ちのめされてしまったわたし。



 それからも、何から何まで戸惑うことばかりだった。

 お弁当を新聞に包んでくるのも、同じ服ばかり着てるのも、ハンバーグを食べたことがないのも、わたしだけ。

 リカちゃん人形も、ダイヤブロックも持ってない。隣町にお買い物にも行かないし、外食も家族旅行もしない。乗ったことのある車と言えば、農作業用の軽トラだけなんて。


 他愛ないおしゃべりにもついていけず固まってしまうわたしに、みんなが怪訝な顔をする。

「そんなことも知らないの?」

 そのたびに嫌でも感じてしまう、うちは普通じゃないんだって。


 いつもおどおど怯えてた。

 わたしだけが知らない「あたりまえ」が、いつどこから飛び出してくるのかが、怖くて。



 だからわたしはいつだって、一生懸命授業を聞いて、先生の言いつけをよく守った。

 それだけが、その時のわたしが手に入れられる「あたりまえ」だったから。


 実際、勉強ができればそれだけで、大抵のことは帳消しになった。

 クラスメートには「すごいね」と言われ、先生はいつだって、くそ真面目な優等生を無条件に信頼してくれた。



 でも、それもずっとは続かなかった。


 最初は、四年生の時。

 休み時間、トイレから戻ってくると、机の上に、大量の消しゴムかすが積まれていた。

 いじわるな目でこっちをチラリ、ひそひそ話をしている二人組の女の子。

「これ、あんたたちでしょ」

 気色ばんで問い詰めようとすると、とぼけた顔で、

「証拠は?」

 ぐっと詰まってそれ以上何も言えないわたしを、面白がってニヤニヤ笑い。


 やがて、「小日向の家は貧乏で、一日百円で生活してる」なんていう噂が、クラス中に広まった。

 昼休み終了のチャイムが鳴って、校庭から走って戻ってくる男の子たち。

 口々に「一日ひゃくえーん!」と叫びながら、わたしの横を通り抜けていく。


 掃除の時間は、廊下に閉め出された。

 それならばとひとりでモップをかけ終えて、いざ教室に入ろうとすると、汚いものから逃げるように、みんな慌てて出て行ってしまう。


 遠巻きのヒソヒソ話は、たくさん聞こえてきたけれど、近くに来て声をかけてくれる子は、誰もいなくなった。

 帰り路も、ひとりぼっち。


 ただひとり、一緒に帰ろうと言ってくれた女の子がいた。なんて優しいいい子なんだ。

 でも、喜んだのもつかの間、

「だって、お母さんがね、頭のいい子とは仲良くしておきなさいって」


 どれもこれも小さな棘ではあったけれど、わたしの心に刺さったそれは、しくしく、しくしくと痛み続けた。毎日増えていく傷は、ボディブローのようにじわじわと効いてくる。



 それがいつまで続いてどうやって終わったのか終わらなかったのか、今となっては思い出せない。けれどただひとつ確かなことは、小学校を卒業するまで、学校で笑った記憶がひとつもない、ということだ。



 いや、笑わなかっただけじゃない。

 わたしは、泣きもしなかった。


 毎日きちんと登校し、ちゃんと授業を受け、先生の言うことをちゃんと聞いて、宿題もやった。

 まるで、正確な動きを繰り返す、ロボットみたいに。


 ただ、その内側で、心はすっかり色を失っていた。


 覚えているのは、学校の外階段から地面をのぞきこみ、「どこか別の世界に、行く方法がないかなあ」と考えていたことだけ。

 それが「死」と結び付くには、わたしは幼すぎたけど。



 その時思ったんだ。

 別の世界に行けないのなら、武器が欲しい、と。

 どんな悪意もはねのけられる、最強の武器が。


 だから、小学生なりの頭で考え続けた。

 絶対的な正しさって何なのかを。

 そして出した結論は、「絶対的な正しさなんてありえない」、つまり、いじめる側に正当性なんてないんだ。

 けれど、「おまえたちは正しくなんかない」と言ってるわたしのほうが正しいはずなのに、いくらそれを主張してみても、いじめが止むことはなかった。

 彼らにとってのわたしはすでに、心のある、痛みを感じる人間ではなかったから。

 いくら踏みにじっても構わない「モノ」としか思われていなかったから。



 状況は何も変わらないまま、わたしは誰に対しても、理屈っぽくて喧嘩腰になった。

 そんなわたしに母さえも、「おまえは怖い」と言った。


 それでいい。

 もう誰からも、責められたくない。

 傷つくのは、たくさんなんだ。


 けれど身を守るために着込んだ鎧は、わたしをますます孤立させた。

 わたしは、ますますひとりぼっちになっていった。




 数年前、そのころの通知表を見て噴き出した。

 コメント欄にあったのは、

「真面目で責任感が強く、友達からの信頼が厚い」


 はい? いったいどの友達が、信頼してたって?



 大人たちは誰一人、わたしがいじめられていることに気付かなかった。


 ちゃんと学校に行ってたから。

 言われたことをやってたから。

 テストの点がよかったから。


 泣かなかったから。

 叫ばなかったから。


 大丈夫だと思いこむ。



 違うよ、わかっていただけ。

 泣いても、誰も助けてくれないって。




 大人になった今でもよく思う、大人はわかってくれないって。


 でも、ごくごくたまに、目に見えるものだけで決めつけないでくれる人を見つけると、じんわりと救われたような気持ちになる。


 そしてそんなときだけ、あの頃の孤独だった小さなわたしが、癒されていくような気がするのだ。

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