第二章 8
「ほれほれっ。観念するんだ、おしずちゃん」
「誰よそれっ。ていうか、ちょっとマジでやめてよっ」
布団に押し倒されたマヒルは、馬乗りでこちらにキスを迫る恰幅のいい男の顔を、両手で押し返していた。脂が手について気持ち悪いが、この手を放すわけにはいかなかった。
「もうたまらんよっ。いっちゃうよ、おじさんいっちゃうよっ」
興奮のあまり褌からこぼれる自分の尻をペシペシと叩いてから、恰幅のいい男が、マヒルの着物の裾に手を突っ込んだ。いよいよ貞操を奪われる、とマヒルは唇をかんだ。
だが――。
「あれ? なにこれ、太くて硬くて棒状で……えっ?」
(――しめた!)
マヒルはとっさに男の手を取り、引っ張ると同時に頭を突き出した。
頭突き。
男は鼻血の尾を引いてぶっ倒れた。呼吸を荒げながら、マヒルは裾の中に手を入れ、そこから竜の牙を取り出した。実は着替えさせられるとき、下着に隠しておいたのだ。
「あぶなかった……いやほんと、人生で一番あぶなかった気がするわ」
ともあれ、これで逃げられる。
竜の牙をふところに入れなおしてから、マヒルは襖を開けて部屋を飛び出した。
廊下は悲鳴と炎で埋めつくされていた。遊女とその客たちが口元を押さえ、身をかがめて走っている。天井あたりには黒煙がただよい、壁は赤く燃えていた。
火事が起きたのだろうか。何はともあれ、これまたラッキーだ。
この騒ぎに乗じれば、足抜けもたやすいはずだ。
「日ごろの行いが、こういうところで生きてくるのよね」
なんて得意げな顔になって、マヒルはその階段方面へと走り出した。
だが、五歩ほど進んだところで、足を止めた。止めざるを得なかった。
「……やっぱツイてないのかも」
「遊女になれば見つからないとでも思ったのか?」
士道衣を着た金髪の男がいた。
黒外套の下に青竜刀をたずさえるその男の碧眼は鋭く、鷹のそれを連想させる。彼は水泡のような念力の壁に守られており、火や煙を遠ざけていた。
廃士道場で出会った二人組みの糸目よりも、危険な香りがする。
素人目にも、マヒルと同じその西方系の男――ユルヨは隙がないとわかったから。
「あんた追手でしょ? どうしてこんなところにいるのよ」
「あれだけでかい〝声〟を出されれば、誰だって気づく」
(声? さっきのおっさんとのやり取りで、あたしそんなにでかい声出してたっけ?)
そんなことを考えつつ、マヒルは天井や襖を焼く炎を指差す。
「この騒ぎは、あんたたちの仕業?」
「まあ、半分はそうだな」
「半分?」
「残りの半分は、おまえのツレだ」
(あたしのツレ? それって……え、もしかして)
「トヨヒサがここにいるの?」
「知らなかったのか。決裂でもしたのか?」
「あ、あんたには関係ないっ」
まさかボディーガードをたのんだら逃げられた、なんて恥ずかしくて言えなかった。
マヒルの反応を見てから、ユルヨが肩をすくめる。
「まあいい。どちらにせよ、お前を捕まえるということには変わりないからな」
「あんたらが、あたしを狙うのは知ってる。あたしの身体にしたことも。でも、あたしはあんたらのこと何も知らない。盗賊なの? だとしたらどうして道者の格好なんて?」
「道者の格好も、盗賊も、演出の一種だ」
「演出?」
「俺らは亡霊だ。戦争に負け、戦争に狂い、戦争を望むただの亡霊。そしてお前は火種だ」
「まったくわからないんだけどっ。あんたポエマーかなにか?」
「ま、気にするな」
ユルヨが言うと同時に、マヒルの身体が金縛りにあった。いや、実際はマヒルの身体に透明な糸状の力場が何重にも巻きついていた。ユルヨの指先から放出されたそれはあまりにも速く、食らうまで気がつくことができなかった。おまけに強力すぎて身動きできない。
「ちょっ! え、なにこれ! くんのうっ!」
「食らったか。まだ完全には使いこなしていないようだな。〝声〟は偶然か」
なんて言いながら、悠々と炎の廊下を歩き、ユルヨがマヒルに近づいてくる。
マヒルは微動だにしない身体をなんとか動かそうとするが、無理だった。
ユルヨとの距離が、見る見るうちに縮まっていく。
(このままじゃ――え?)
廊下の一部が崩れたのは、そのときだった。
急に足場がなくなり、マヒルの身体がそのまま落下。ユルヨもその崩落に巻き込まれたのか、拘束が解けた。しかし空中ではどうすることもできず、そのまま地上へ。
きゃあああああ――。