理想郷
泡立つ海を背にして一人、砂浜から上がってくる少女。伏し目がちな視線は誰かの足跡を辿っているかのようにみえる。
「たとえば、この世界が一枚の風景画だったとして……」
少女の唇の動きに、言葉はごく自然に乗った。
瞳の色はスミレの花を思わせる。空に垂れこめた鈍色の雲が、足元に迫る勢いで陰りを落としているからなのかもしれない。まだカモメも訪れない夜明け前の海辺の景色には、よりいっそう青が被っていた。
「あら、あそこにも」
次第に海は遠ざかり、古びた小屋が近づいてくる。
「虫食い穴は至る所に開いているのね。『何か通った?』って訊いてしまう位おかしな間とか、二度見してしまう光景とか……………」
小屋の前では地を這う風の唸り声や、パタパタとはためく音が盛んにして、小さな呟き声など簡単にかき消されてしまう。少女は風に乱れる髪を片手で押さえつつ、小屋の扉を叩いた。
「誰かー、居ませんかー」
しばらく待ち、再度叩く。
小屋の中から応答はない。
「……変ね、私。居るのを分かっていて、誰かだなんて」
構わず少女は続けた。
誰かに聞かせるように。
「いいわ、居ても居なくても。確かにここは虫食い穴だもの。おおよその時の流れから外れて、歪曲してしまった場の一つ。どうやらその轍に乗ってしまったようだし。これからも行く先々でその存在に気付けば、何回でも乗り換えるわ。何故って、快いからよ。いつだって私の心は快い方を選んでしまう。なんて不自由なのかしらね」
言い終えた少女の髪には、淡い花びらが幾重にも積もっていた。
いつの間にか無数の花が降り注いでいる。
見上げた先には小屋の高さ五倍は優に超える、幻のような波が忍び寄っていたのだ。
「見える? あなたにも……」
僅かに手を差し出す仕草を見せ、途中で止める。
地鳴りと怒涛が一気に押し寄せた次の瞬間、
全ての明るさが一点に吸い込まれて消えた。
「……くん、里山くん」
呼ぶ声に顔を上げると、よく見知った顔があった。
世間はクリスマス前夜だというのに、僕と古本の修復作業というボランティアに付き合ってくれている。彼女は奇特な学友だ。
「大丈夫なの?」
大丈夫、と答えようとして彼女の視線が下に向いていることに気づく。
あろう事か、机上の僕の手は彼女の手をしっかりと握りしめていた。
「はっ、津波が……また、妙なものを。いいや、違うんだ。この手がいけなかった」
パッと手を放したものの、その後の定位置が分からずに頭を抱えてしまった。
傍から見れば、血迷った末の支離滅裂な言動ではあるが。
本のページの真ん中に、ポッカリと開いた穴がある。それを何度も見返した。直径一センチ弱の丸い穴で、何かが突き通ったかのような痕だ。いや、何かを突き通したというべきか。
「うーん。これはひどいね」
彼女が身を乗りだし、僕の手元まで顔を近づけてきた。
ページをめくっては「修復用の和紙はあったっけ……」などと言っている。
彼女から、ほのかに漂う温かい香り。白い花のジャスミン。
五感にいつもの現実が戻ってくる。
「…………あのさ、僕は寝ていたのかな?」
間抜けな質問だ。
「え? 急にうつむいて、それっきり動かなくなったから、さすがに疲れてそうなったのかと思ったけど。なんか、うなされてもいたし」
そう言う彼女に対して、
「僕は本の欠損部から非日常的な世界を覗いていて、ぼーっとしている時は大概その状態なんだ」とはとても言えない。
言えば間違いなく精神を疑われるだろう。二、三歩後退りされ、嫌悪の視線でもって友情を撤回される可能性も否定できない。大袈裟だろうが、現在の繋がりを絶たれることが何よりも怖いのだ。
「ごめん。寝ていたんだろうな、きっと。……うん。よし」
自らの頬を両手でバシバシと叩いた。一連の様子を終始見ていた彼女がクスリと笑う。
「その前に一回、休憩しようか?」
席を立ち、しばらくしてから戻った彼女は、小さな箱をブラブラ揺らしてみせた。
「ほら、実はケーキもあるの」
ティーカップに注がれる紅い水色。立ちのぼる甘くほろ苦いスパイスの効いた香りの湯気。お茶を淹れる彼女の面差しに、以前どこかで憶えた感覚が蘇る。
子供の時だったか、それより遥か昔だったとか有り得るのだろうか。
「ぶっ。里山くん……フォークが口に入ってないけど」
ケーキを口に運ぶためのフォークは、僕の頬に突き刺さったままだ。
「う……ごめん」
また、笑われた。
我ながら呆れ返り、思った。
僕は何回彼女の笑顔を見れば満足するのだろう、と。
何処からとも無く去来する、普遍的な懐かしさ故なのか。
それは彼女の姿を借りて佇み、いつまでも消えることはなかった。