↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
94/96

87話 【ゼニス歴1080年 ニール視点】

冬の入り口だった。


リオネッサの朝は、この時期になると空気が刺さるように冷たくなる。

市場の人が厚着になる。

治療院に咳の患者が増える。

薬草の在庫が減り始める。


俺は治療院の薬草棚を整理していた。

冬に向けて何が足りないか。

何を追加するか。

一つずつ確認していく。


センブリ、カージの根、乾燥ハーブ。

淡々とした作業だった。


その時。

治療院の扉が開いた。


患者が来たのだろうと思った。

だが足音が違った。


重い。

ゆっくりとした足音だった。

もう一人分の足音もある。

こちらは静かだった。


俺は棚から振り返った。

廊下に人影が二つあった。

一人は大柄な男だった。


カインだった。


無表情のまま、誰かに肩を貸している。


その誰かを見た瞬間、俺は動きを止めた。

黒い髪。

大きく膨らんだ腹。

臨月だった。


テオだった。


「……」

俺は棚の前に立ったまま、何も言えなかった。

カインが俺を見た。


いつも通りの無表情だった。

だがその目に、長い道を歩いてきた疲労があった。

「ニール」


カインが低く言った。

「頼めるか?」

俺は一秒だけ間を置いた。

「入れ」

   

テオを診察室へ連れていった。

寝台へ横にさせた。


顔色を確認した。

脈を取った。

腹の大きさを見た。


「いつからだ」

「二日前から張りが強くなった」

「破水は?」

「まだ」

「痛みは?」

「断続的にある。今は落ち着いている」

落ち着いた声だった。

顔色は悪い。

だが声は乱れていない。


俺は腹に手を当てた。

子供の位置を確認した。


「逆子じゃない」

「そう」

「頭は下がってる。近いな」

「わかってる」

俺はテオの顔を見た。


カルディアで別れて以来だった。

痩せていた。


だが目は変わらなかった。

あの冷たい、全部見通している目。

ただ——以前と何かが違った。

ヒリヒリした緊張感がない。

あのカルディアで感じた、張り詰めた空気がない。

削れた後の、静かな目だった。


「ニール」

テオが言った。

「なんだ」

テオは天井を見たまま言った。

「迷惑をかける」

「迷惑じゃない」

「それでも」

「そうか」

「うん。ありがとう」

それだけだった。


以前のテオなら、礼も謝罪も言わなかった。

当然の顔で要求した。


今は違う。

ただそれだけの違いだった。

だがそれが大きく見えた。

俺は診察室を出た。

   

廊下にカインが立っていた。

壁に背を預けて、腕を組んでいた。

「ニール」

「ああ」

「迷惑か?」

「迷惑なもんか」

カインは少し黙った。


「どこで会ったんだ」

「東の街道で」

カインは答えた。


「一人で歩いていた」

「テオが?」

「ああ」

「止めたのか」

「止めなかった」

カインは窓の外を見た。


「ただ、一緒に歩いた。それだけだ」


俺は黙った。

カインらしかった。


理由を聞かない。

説明を求めない。

ただ隣を歩く。


「ニール」

カインが言った。

「子が生まれたら——ここで少し世話になりたいと考えている」

「少し、というのはどのくらいだ」

「子供が歩けるようになるまで」

「それだけか?」

「それだけだ」

カインの声は静かだった。


俺は答えた。

「問題ない」

カインは短く頭を下げた。


イルルが往診から戻ってきたのは、昼前だった。

扉を開けた瞬間、廊下に立っているカインを見て足が止まった。


「カイン? なんで——」

「イルル」

俺が声をかけた。


イルルは俺を見た。

何かを読み取ったのか、黙ってついてきた。

診察室の扉を開けた。

一瞬、止まった。

寝台のテオを見た。


「……テオ」

テオは目を開けた。


イルルを見た。

二人はしばらくお互いを見ていた。


謝罪もなかった。説明もなかった。

イルルはただ、テオの腹を見た。

それからエプロンの紐を締め直した。

「わかった」

それだけだった。

   

陣痛が本格的に始まったのは、夕方だった。


イルルが落ち着いて動いた。


産婆見習いとして学んできた動きだった。

無駄がない。

声も穏やかだ。

「お湯持ってきて」

「はい」

ミアが走る。

「布はここに置いて」

「わかった」


カインが廊下で待っていた。

俺は部屋の隅に立っていた。


テオが痛みに耐えていた。

声を出さなかった。

歯を食いしばって、寝台の端を握りしめていた。


「テオ」

イルルが言った。

「力抜いて」

「……わかってる」

「わかってないよ。肩に力入ってる」

「……」

「息して。一緒に」

イルルが深く息を吸った。

テオがそれに合わせた。

ゆっくりと、息を吐いた。


「そう」

イルルの声は穏やかだった。


俺は黙って見ていた。

イルルはこういう時に強い。

患者が怖がっている時、痛がっている時、イルルは怒らない。

急かさない。

ただ隣にいて、一緒に呼吸する。


テオも落ち着いていた。

あのテオが。


痛みで顔をしかめながらも、イルルの声に合わせて息をしていた。

時間が経った。


夜になった。

そして。


小さな声がした。


産声だった。


細い、小さな声だった。


だがはっきりと聞こえた。


テオが長い息を吐いた。

全部出し切ったような息だった。


イルルが素早く処置した。

それからテオに子供を渡した。

テオが受け取った。


両腕で。

ぎこちなく。


だが確かに。


子供を抱いた。


部屋が静かになった。

テオは子供を見ていた。


何も言わなかった。

ただ見ていた。

イルルがテオの隣に座った。

一緒に子供を見た。


「……かわいいね」

小さく言った。

テオは少し間を置いた。

「ええ」

静かに答えた。


それだけだった。

それだけで十分だった。


俺は部屋の隅から、その二人を見ていた。

何も言わなかった。


カインが廊下から入ってきた。

無言で子供を見た。


テオがカインを見た。

カインがテオを見た。


言葉はなかった。

だがその間に、何かがあった。


長い道を一緒に歩いてきた者同士の、静かな何かが。


俺は壁際から一歩だけ前へ出た。

「おめでとう」

テオはニールを見た。


少し間を置いて。

「……ありがとう」

静かに言った。


子供がまた小さく声を上げた。

テオが子供を見た。


「ミライ」


小さく呟いた。

「名前か?」

「ええ」

テオは子供を見たまま答えた。

「この子の名前よ」


未来。


俺はその名を頭の中で繰り返した。

この世界にはない響きの名だった。


だがテオが選んだ名だった。

それだけでわかった。 


この子に何を込めたのか。

カインが子供をじっと見ていた。

無表情のまま。

だがその目は、いつもより少し柔らかかった。

   

テオとカインとミライがリオネッサを出たのは、子供が生まれて3年後だった。

朝だった。

冬の冷たい朝だった。

治療院の前で、俺とイルルが見送った。

テオはミライを抱いていた。

カインが荷物を持っていた。


出立の前、テオは俺を見た。

長い沈黙だった。

俺も何も言わなかった。

言うべき言葉が見つからなかった。


言わなくていいと思った。


テオは前を向いた。

カインと並んで歩き出した。

ミライが小さく声を上げた。

テオが子供を抱き直した。


その背中を、ニールとイルルは並んで見ていた。

二人の姿が、道の向こうへ遠ざかっていく。


テオは振り返らなかった。

カインも振り返らなかった。


ただ、前を向いて歩いていった。

その背中が、リオネッサの街角を曲がった。

見えなくなった。

冬の風が吹いた。


イルルが小さく息をついた。

「……行っちゃったね」

「ああ」

「もう会えないかもね」

「そうかもな」

イルルは少し黙った。

「ニール」

「なんだ」


「ミライって、どういう意味だと思う?」

俺は少し考えた。

この世界にはない言葉だ。

だがテオが選んだ言葉だ。

「さあ」

俺は答えた。

「また、「さあ」なの?」

「知らんわけじゃない」

「じゃあ教えてよ」

俺は空を見た。


冬の空だった。

だが、どこか春の気配がある空だった。

「未来だ」

イルルは少し間を置いた。


それから、小さく笑った。

「……テオらしいね」

「ああ」

「でも」

イルルは道の向こうを見た。

もうテオ達の姿はない。


「いい名前だね」

「そうだな」


俺も道の向こうを見た。

空が明るかった。

冬の、冷たい朝だった。

だが光はあった。

確かにあった。

二人は並んで立っていた。

しばらく、そのまま立っていた。

それから。


「ニール」

「なんだ」

「患者来てるよ」

「わかってる」

「じゃあ早く」

「お前が先に行け」

「いっしょに行こうよ」

イルルが歩き出した。

俺も歩き出した。


治療院の扉を開けた。

薬草の匂いがした。

いつもの匂いだった。

リオネッサの朝が続いていた。


それだけのことだった。

このシーンを書きたくて、なんとか皆を辿り着かせる事が出来ました。

これでこの物語も無事に終わる事が出来ます。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
基本的に毎週水曜日、土曜日、日曜日の21時頃の更新を目指しています! 長期休暇期間中は、、、頑張ります!!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。