69話 ゼニス歴1079年 ニール視点
その夜、俺達は中央区の宿へ案内されていた。
部屋は簡素だが清潔だった。
寝具には虫除け香草。
廊下には定時消灯の札。
井戸水使用量まで管理されている。
「……息苦しい街だな」
ガブが窓際で呟く。
「でも安全そうではあるよね。椅子もふかふかだし」
イルルは椅子へぽむぽむと座りながら言った。
「全く安全だ」
グレアム様が短く答える。
「安全すぎる」
その言葉に、部屋が静まった。
俺は机の上へ置かれた冊子を手に取る。
『都市生活規則』
『感染症予防指針』
『識字教育案内』
全部、印刷物だった。
しかも大量生産前提の粗紙。
「印刷技術まで普及してるのか」
「こんなの見た事ねえ。
こないだまで戦争でボロボロにされていた街だとは思えねえ」
ガブが腕を組む。
「ここ数年でここまで発展するとか、あり得ねえだろ」
「あり得ない事をやってるのよ」
声がした。振り向く。
テオだった。
いつの間にか入口に立っている。
「ノックくらいしろ」
「したわよ」
「してねえだろ」
「あなたが気付かなかっただけ」
テオは当然のように部屋へ入る。
そのまま椅子へ腰掛けた。
「フィデルは?」
「会議中」
「随分忙しいんだな」
「国家運営って忙しいのよ」
テオは疲れたように肩を回した。
その姿を見て、イルルが少し驚く。
以前のテオは、弱さを見せる女ではなかった。
「寝てるの?」
「三時間くらい」
「少なっ!?」
「今は拡張期だから」
意味不明だった。
だがテオにとっては当然らしい。
「南部工業区、北部農業区、西側輸送路、全部再編中なの」
さらっと言う。
「あと印刷工房の増設と、識字教育の教師不足も」
ガブが頭を抱えた。
「なんでお前一人でそんな事してんだよ……」
「一人じゃないわ。フィデルがいる。」
テオは即答する。
「でもワタシのように全体を把握している人間は絶対に必要」
その言葉に。
俺は少し違和感を覚える。
全体設計。
それはつまり。
国家そのものを、一つの仕組みとして見ているという事だ。
「お前は…」
俺は静かに聞く。
「お前は、今、楽しいのか?」
テオは少し黙った。
それから、窓の外を見る。
夜の街。
灯火。
巡回兵。
遅くまで働く工房。
「……楽しかった、わね」
小さく呟いた。
「過去形?」
「昔読んでた異世界転生小説を読んでいて、その通りにこのシステムを始めた頃は」
イルルが首を傾げる。
「そんな好きだったんだ」
「好きだったわよ」
テオは少し笑う。
「現代知識で異世界を変える話」
チート無双して、文明発展させて、国を豊かにして」
懐かしむような声だった。
「読んでる時は、本当に夢みたいだった」
「夢?」
「そう」
テオは机へ視線を落とす。
「知識があれば、人を救えると思ってた」
その言葉に俺は黙る。
「知識は使う場所と使い方だと、俺は思う」
「そうね。実際にやってみて分かった。現実は違ったわ」
テオは続ける。
「紙を普及させようとすると、
原料は?
輸送は?
加工技術は?
職人育成は?
利益は?
維持費は?
問題が次々と出てくる。
そんなシーンは小説の中には書いてなかったわ。」
淡々と並べられる言葉。
「石鹸もそう。
誰が材料を集めて、
誰が量産するの?
それをどうやって売るの?
道づくりだってそう。
誰がどこに道が必要って判断できる?
そこの地盤はどうなってる?
石畳なんて出来るわけない。
そもそもそんな都合のいい石なんてないわ。
作った後の補修管理はどうするの?
ってな感じで、とにかく問題だらけなの」
イルルがぽかんとしていた。
「国家運営ってね」
テオは静かに言う。
「理想だけじゃ回らない。骨身に染みてわかったわ」
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「失礼します」
若い男が入ってきた。
書類束を抱えている。
「北部街道の件です」
「ええ」
テオは即座に切り替わる。
「橋梁工事の遅延?」
「はい。木材不足で」
「違うわね」
テオは書類を一瞬見ただけで言った。
「原因は人員流出よ」
「え?」
「農繁期で農民が村に戻ってる。賃金を上げて、引き留めなさい」
「ですが予算が」
「輸送効率改善で回収できる」
「……!」
「あと橋完成後の税収予測、甘いわ。再計算」
「は、はい!」
男は慌てて出ていった。
部屋が静まる。
ガブがぼそっと言った。
「化け物かよ」
テオは肩をすくめる。
「慣れよ」
「慣れで済むか」
「済むわ。あなたでも出来るわ。慣れれば、ね」
そして、ふとテオの目が遠くなる。
「でもね、実際は私はそこまで深く知らない」
テオは俺を見る。
「知ってるのは『概念』だけ」
「だろうな」
「ええ。転生小説に出てくるテンプレ」
テオは指を折る。
「紙」
「印刷」
「学校」
「石鹸」
「道路」
「火薬」
「ガラス」
「会計」
「識字教育」
「衛生管理」
「でも細かい理論は知らない」
「だからフィデルか」
テオは静かに頷いた。
「あの人ならそれを埋められるのよ」
「ワタシに足りない部分を」
その声には、信頼が混ざっていた。
いや、もっと危うい何かが。
「フィデルは天才よ」
テオが言う。
「知識を知識のまま終わらせない」
「人を動かせる」
「国家を動かせる」
「未来を信じさせられる」
そこへ、外から歓声が聞こえた。
「夜だというのに、また演説か」
グレアム様が言う。
「違うわ」
テオは窓を見る。
「夜間学校の終了時間」
広場では、子供達が本を抱えて走っていた。
笑いながら。
未来を疑わない顔で。
「ねえニール」
テオが静かに言った。
「この世界って、ずっと間違ってたと思わない?」
俺は答えない。
「知識を独占して」
「生まれで人生が決まって」
「学べる人間が限られて」
「救われる命も限られてる」
テオは窓の外を見つめる。
「フィデルは、それを変えようとしてる」
「……犠牲を出してでもか」
俺が言う。
テオは少し黙った。
そして言う。
「世界を変えるって、そういう事でしょう?」
静かに笑った。
その笑顔は、どこか壊れ始めているようにも見えた。




