敷かれた道の果てに——天才の兄を持つ、弟の話
私には、二つ上の兄がいる。
私は正妃の子、兄は側妃の子。
どちらが王太子となるのかは、まだ決まっていない。
本来なら正妃の子である私が継ぐのが順当であるが、そうはされていない。
理由はある。
生まれた順と、それ以上に――能力の差だ。
二つという年齢差では説明のつかないものが、兄と私の間にはあった。
兄上を教えていた教師が、私の元へ来ることが何度もあった。
何かが気に食わなくて兄上に首にされたのだと聞いた。
それでもとても優秀だから、私の教師もやらせてみようということだった。
授業を終えると、皆口を揃えて私を「優秀だ」と言う。
しかし、どの教師も、瞳の中にわずかに失望の色を滲ませていた。
彼らは嘘をついているのではないか。
自分は落ちこぼれなのではないか。
それを、執事に漏らしたことがあった。
「兄上は、優秀なのだろうか。私とは、まるで違って」と。
彼は言った。
「間違えてはなりません。ルーカス殿下は紛れもなく優秀です。あなたは努力なされてきた。――けれど。エドリック殿下と比べてはなりません。彼の方は、鬼才です」
それならば。
それならば、兄上が王位を継ぐべきではないか。
私などよりも、よほど。
「気に食わない教師を首にした」
「乗り心地が悪いと馬を殺した」
「姿が見えなくなった侍女も、実は処分されたのではないか」
そんな兄上に国を継がせることはできないのだと、母上は語った。
冷酷で傲慢な兄には、国を任せられないと。
母上から聞く“エドリック”はどれも不穏で恐ろしかった。
それが本当かは、分からない。
けれど少し耳をすませば、兄上の噂はどこにでもあった。
側妃様――兄上のお母君は早くに亡くなったが、それにしても悼む様子がない。寂しがりもしない。側妃様が可哀想だ、と。
王城付きの騎士に怪我をさせたらしい。あの深い青の瞳で、冷たく見下ろしたのだ、と。
誰にも情を持たない。人を人として考えていないのだ、と――そんな噂があった。
私は、兄上のことが理解できず、怖かった。
それが決定づけられたのは、ある悲劇が起こったときだ。
――兄上の婚約者が、事故で亡くなった。
コーネリア・リンティア。
王国で誰よりも可憐だとされる彼女は、ふわりと溢す笑みが印象的な、皆に好かれる方だった。
私と一つしか変わらないのに、お父君であるリンティア侯爵の外交に同行までされて、王国の――兄上のために、動いていた。
私は、兄上とよりも、彼女との方が多く話した。
理由はおそらく、初顔合わせ後の茶会だと思う。
兄上と私は、同時期に婚約者が決まった。
私が九歳のときだ。
父上が主導して、父母と兄上、私、そして、私たちの婚約者での顔合わせを行った。
重苦しく厳格な空気で緊張したが、兄上はまったく、雰囲気に気圧されることがなかった。
それ自体はすぐに終わり、その後子どもたち四人だけで、親睦を深めるための茶会が行われた。
庭園のガゼボで、騎士たちは少し離れたところにいた。
兄上は、そこにいるだけで惹きつけられるような存在感があった。
目を離さずにはいられない。
それでいて、見つめることが不敬にあたるのではないかと思わせるような。
ガゼボへ移動する間も、席に着いてからも、その場の空気は兄上のものだった。
話題は自然に整えられ、会話が途切れることはなかった。
何か問われれば、兄上は迷いなく答える。そのひと言ひと言に、揺らぎがない。
十一歳と九歳という差では、説明がつかない。
きっとあの場に大人がいたとしても、兄上には及ばなかっただろう。
噂のような傲慢さはなかった。
謙虚なわけではない。ただ、完璧だった。
その能力に対して、正しい姿勢だった。
様々な話題が飛び交った。真面目な話から、ユーモアに富んだ話まで。
兄上がずっと話すわけではなく、それを引き出していた。皆からだけではなく、私からも。
王国の現状など、難しい話もした。分からない内容はなかった。
それは、私が学んでいるからではない。
兄上が、私たちでも理解できるように話しているのだ。それを親切そうにもせずに。当然として。
何を話しても、整えられた道を歩まされているように思えた。
ともすれば、自分の足で辿っていると錯覚しそうになる。
ただ示された道を進んでいるだけなのに。
それを自覚しても、道の外れ方は分からない。
足元にある道筋を、辿ることしかできない。
兄上が言葉を重ねるたび、胸に浮かんでしまった。
私の婚約者は、私ではなく、兄上の隣に並びたかったのではないかと。
誰であれ、私ではなく兄上を選びたがるだろうと。
胸の奥がざわついた。立ち去りたくなった。
俯いて、耳を塞いでしまいたくなった。教師たちの落胆の瞳を思い出した。
そんなとき。ふふっと小さな笑い声がした。
声の元を向くと、リンティア嬢が花のほころぶように笑っていた。
「すみません、緊張していたのですがエドリック殿下の語り口が軽妙で、楽しくなってしまいました」
白くて、小さな花が思い浮かぶ。
愛らしく繊細で、ふわりと香るような、白い花を。
「それにしても――こうして初めて顔を合わせた者同士が、義姉弟になるというのは、不思議な気がします」
ね、ルーカス殿下?
アメジスト色の瞳が、こちらを向いた。
あたたかく、やわらかい光を宿して。
「そうですね、不思議な気がします」
漸く、息ができた。そんな感覚だった。
茶会の後も、彼女は、そうやって語りかけてくれることが多かった。
近すぎず、遠すぎない距離で。
時たま、兄上の話をしてくれた。
彼女の口から語られる兄上は、不器用な優しさを携えているようだった。
私の知る兄上とはあまりにも異なっていて、うまく飲み込むことはできなかった。
恐ろしさは変わらなかった。
けれど、彼女と話す時間は、とても穏やかなものだった。
顔合わせから四年が過ぎた。
兄上との距離は広がるばかりで、恐ろしいという感情も変わらないままだった。
兄上と会うと身体が強張る。
自分の矮小さを突きつけられる。
威圧感に押しつぶされそうになるし、あの深い青に呑み込まれそうで怖かった。
けれど、リンティア嬢が義姉となるのなら、うまくいく気がしていた。
だから。
悲報を受けたとき、すぐには実感が湧かなかった。
まさか。どうして彼女が。
そう思った。
兄上は、どう感じただろうか。
大丈夫なのだろうか。
気になってしまった。
そうして、第一王子宮まで兄上に会いにいった。
ひんやりとした冬の空気が、チリチリと肌を刺す。
呼吸するたびに苦しくなるのは、寒さ故なのか、それ以外なのか、分からなかった。
辿り着いた先で、久方ぶりに兄上と言葉を交わした。
なんと言っていいか分からなかったが、リンティア嬢の死について触れた。
――兄上は、変わらなかった。
いつもと、何も。
「残念な事故だった」
言い振りに、思わず口をついた。
「悲しくは、ないのですか」
大きな声を出したつもりはない。だが、静かな王子宮で、私の声は廊下に響いた。
「悲しんで、何か変わるのか? ……ルーカス、我々は王族だ。逐一、心を揺らすことがあってはならない。――今の発言は、聞かなかったことにする。お前もそうしろ」
嗜められた。在り方を。
「……ディオネル」
「ルーカス殿下、お久しぶりです」
第一王子宮からの帰り、兄上の親友であるディオネルを見かけて、思わず声をかけた。
ディオネル・ベルクナー。
兄上の一つ下、私の一つ上の青年だ。
兄上とは違い親しみやすく、とても礼儀正しい。
彼と初めてまともに話したのは、私が十歳の頃だ。
「ルーカス殿下、お誕生日おめでとうございます」
公務で来られない兄の代わりに祝いの品を持ってきたのだと、ディオネルは微笑んだ。
兄上の親友だ。ハインリヒ侯爵の孫でもある。
ベルクナー伯爵令息と呼ぶべきか。
だが、お父君である伯爵とは不仲だという噂もある。他に呼び方があるのか。
少し迷った後、私は「ディオネル・ベルクナー殿。感謝します」と答えた。
ディオネルは、そんな私に対してふわりと笑った。
その笑い方は、どこかリンティア嬢と似ていた。
兄の周りの人は、こうやって笑うのかと思った。
「どうぞ、ディオネルとお呼びください」
右手のひらを左胸に当て、深々と頭を下げられた。
「顔を上げてくれ。分かった。よろしく、ディオネル」
右手を差し出すと、ディオネルは少し苦笑しながら握手を返した。
ディオネルは面倒見がよく、すれ違うときなどいつも微笑んでくれた。
社交界では、上位の者から声をかけなければ会話は始まらない。
その中で彼が示す態度は、「気にかけている」と表すには、十分すぎるほどのものだった。
派閥も違うのに、そうした気遣いができる彼を、私は有り難く思っていた。
――ディオネルも、リンティア嬢とは親しかったはずだ。
もう、聞いているのか。聞いているのなら、どう思っているのだろうか。
気がつけば、「ディオネル」と声をかけていた。
だけども、何を言えばいいのか。
「殿下、どうかされましたか?」
私を心配するように覗き込む空色の瞳に対し、「大丈夫か」と訊きかけ、言葉が止まった。
兄上の言葉が過った。
心を揺らしてはならない、と。
そんな私に、ディオネルは一歩近づく。
私と彼にしか聞こえないように、声を潜めた。
「――リンティア嬢のこと、ルーカス殿下もショックかと思います。将来の義姉弟として、良い関係を築かれていましたから」
私がパッとディオネルの瞳を見ると、彼は目を細めた。
「お察しします。何かあれば、いつでも言ってください」
“心配するように”ではない。
彼は私を、心配してくれていた。
兄上の、友なのに。
「ありがとう、ディオネル」
彼は小さく頷き、私から離れた。
軽く礼をとり、去っていく。
彼の背中を見て、思う。
何故彼のように優しく人を慮る人が、兄の友人でいられるのだろうか、と。
それから二年が経った。
兄上は未だ、新たな婚約者をつけていない。
それはリンティア嬢を悼むというよりも、王位につかないことを示しているようだった。
兄上は、王になりたくないのだと分かった。
だってそうだろう。
あの人が欲しがれば、私などとっくに蹴落とされている。
確かに、私には正妃である母と、四大公爵家の婚約者がいる。
だが、それがどうした。
兄上の後ろ盾であるハインリヒ侯爵もまた、十分な力を持っている。
婚約者など……すげ替えてしまえばいい。
リンティア嬢が亡くなった折、喪に服す社交界で感じた。
「では、王家の次代はどうするのか」と。
その視線の先にあったのは、私ではない。
兄上の婚約者となれば、今からでも王太子妃の座を狙えるのではないか。
そんな空気が、確かにあった。
私も十六となり、成人を迎えた。
国を挙げての祝いとなった。
しかし、私の派閥が願っていたような、立太子の発表はなかった。
父はいまだに決めかねているのだろうか。
それとも、兄上にと考えているところを、母に止められているのだろうか。
祝いが終わり、学院生活に戻ってからも、その考えは晴れなかった。
私の迷いを拾い上げたのは、またしてもディオネルだった。
「殿下、失礼します。――顔色が優れませんが大丈夫ですか?」
十四で学院に入学してから、二年間。
彼はここでもまた、先輩として私を気にかけてくれていた。
「何かあったらいつでも声をかけてくださいね」
入学時に、ディオネルはそう告げた。
だけど、彼から話しかけてくることはなかった。
彼はいつも、私を上位の者として立ててくれていた。
そんな彼がいま、私に声をかけている。
学院の裏庭。木陰の長椅子。
さわさわと葉が擦れる音が聞こえる。
周囲には誰もいない。離れたところに騎士はいるが、声が届く範囲ではない。
考えをまとめたいからと、普段共に歩く友人も置いてきた。
すべてに疲れて、ただ風だけを感じながら、座り込んでいた。
そんな私に気づいたのだろう。
ディオネルは私の元へ足を運び、心配するように瞳を覗いた。
その空色に、押し込めていたものが浮かび上がった。
「ディオネルとて、兄上の方が王太子に相応しいと思うだろう?」
ぽろりと、零れた。
このようなことを、言うつもりはなかった。
それなのに、零れてしまった。
ディオネルも困るだろう。
彼は、兄上の派閥なのだ。
しかしディオネルは、以前と同じように、ただ瞳を細めた。
「私はそれを言及する立場にありません。しかしエディ……エドリック殿下は、そうは考えていらっしゃらないと、私は思います」
ここからは、私の独り言です。
ディオネルは私の隣に座り、静かに話し始める。
「言葉を飾らずに言えば、エドリック殿下は天才です。いや、“天才”では足りないかもしれない。それを、ご本人が誰よりも存じています」
大きく風が吹く。バサリバサリと木の枝が音を立てる。
だがそれよりも、ディオネルの静かな語りの方が、私の耳には深く届いた。
「だからこそ、ご自身が王になることを厭うている。仮に王になれば、彼の方の言葉はすべてが正解とされ、誰も意見することができないでしょう」
「ディオネルでも、か?」
長いまつ毛が伏せられ、その影が白い頬に落ちた。
「彼の方が王である間は、それでも保つかもしれない。けれど、その次は? 次代の王は、同様に背負えるでしょうか。そして――その王の臣下は、どうでしょう。国のために考えることを忘れたまま、支えられるでしょうか」
彼は私の言葉に答えない。
あくまでも、独り言だからだ。
「また、外交の問題もあります。彼の方の能力は、畏れられる。彼の方が王となるのを、近隣諸国は望まないでしょう。『いつ自分の国が侵略されるか分からない』と。彼の方の性質が、その才が。周りを、そうさせる」
彼の口元には、困ったような笑みが浮かんでいた。
「彼の方は、それを誰より分かっています。王国のためには、自分が王となるべきではないと。――そして何より」
ディオネルの空色が、私を映した。
「『きっと、優しい国となるだろう』。そのように、おっしゃられました」
「えっ?」
「『ルーカスの治世は、きっと優しく穏やかなものとなる』。そのように、溢されたことがあります」
理解が、追いつかなかった。
「嘘、だ」
ゆっくりと、ディオネルは首を横に振る。
「それを支えるのが、ご自身の役割である、と」
困ったような瞳で、彼は自身と同じ色の空を見上げた。
どこか遠くを見ているようで、けれど優しい色だった。
「さて、あまり長く独り言を続けていると、寂しい人間だと思われてしまいますね」
ふざけたように笑って、ディオネルは立ち上がる。
一瞬、騎士の位置を確認する。
その視線は、私を気遣うものだった。
いつもの笑みを浮かべ、「失礼します」と立ち去る彼を止める言葉を、私は持たなかった。
十八となった。私は今年学院を卒業する。
いまだ兄上は誰とも婚約していない。
学年が上がる折、父上に尋ねた。国王としての意思を。
明確には答えられなかった。しかし代わりに、『エドリックは弟を推すと言っていた』と伝えられた。
――苦しかった。
私は、隠れてしまいたかったのかもしれない。
あの、圧倒的な才能に。
諦めてしまっていたのかもしれない。
あの、冷徹と呼ばれるまでの自制心に。
兄上が思うのは国であり、私ではない。
臣下の多くも、私では至らないと考えるかもしれない。
それでも。
私は、王国を愛している。
優しい国で、あってほしい。
だから。私は立ちます。この国の、未来の王として。
――それでいいんですよね、兄上。
兄上のことは、いまだに恐ろしい。
あの冷徹で完璧な兄上は、私が国の害になると判断すれば、きっとすぐに排除する。
兄上を知る者たちの落胆の瞳にはいつまでも慣れない。
足掻いても広がるだけの差はいつだって苦しい。
ディオネルの言葉が本当だったかも分からない。
あれは彼の優しさで、あの独り言は嘘だったのかもしれない。
でも――そのうえで、選んだのは私だ。
私が選んだ。逃げずに、立つのだと。この国に。
貴女ならどう思いましたかと、問うことはしなかった。
*
「まったく、エディは人使い荒いなぁ」
第一王子宮の、人払いされた静かな一室。
扉の傍に立つ青年が、椅子に座る青年へ笑みを向けた。
その空色の瞳が細められる。悪戯げな色と共に。
「なんの話だ?」
「なんの話って……わざわざ弟君に伝言を届けてあげた親友に言う言葉?」
「伝言など、頼んでないだろう」
空色に映された青年は、面倒臭そうに「ハァ」とため息を吐く。
そんな彼に、空色を持つ青年は、一言ずつ区切って近づいていく。
「君が」
一歩。
「わざと」
また一歩。
「僕の前で」
着実に、二人の距離は近づいていく。
「溢した」
空色の瞳が、深い青の瞳を覗き込む。
「それも」
にんまりとした笑顔を携えて。
「ルーカス殿下が使えなくなりそうなときに」
深い青――“エディ”は、またため息を吐いて、一言返す。
「不敬だぞ」
「どれが?」
首を傾げる。その表情は、あまりにも無垢だ。
「僕のことこき使ったんだから、今度はそっちがお願い聞いてよね」
「俺にはお前をこき使った記憶はない。だが、独り言くらいなら聞いてやらなくもない」
「素直に『ありがとうディオ、借りは必ず返す』って言えばいいのに。それにしても――自分で選んだと思うんだろうなぁ」
その言葉に、エディは「実際そうだ」と鼻を鳴らした。
「君は本当に……そういうところだよ、エディ」
今度ため息を吐いたのは“ディオ”だった。
「敷かれた道を歩まされてるなんて、気付かないんだろうねぇ」
「気付いても問題ない」
その「問題ない」は、確信の音だった。
「まったくもう。優しいんだか、なんなんだか」
「俺が優しかったことがあったか?」
「記憶にあるような、ないような。ま、二年後くらいかな? 君の予想的には。彼が決意するのは」
ああいう種ってさ、芽吹いてからも、すぐには育たないんだよねぇ。
ディオが笑う。
エディは眉間に皺を寄せたままだ。
「早いに越したことはないが、卒業までに成長すればいい」
「大樹になるまで時間がかかっても、面倒見のいいお兄さんがいるからね」
「……そうだな」
ディオはエディの同意に目を見開く。
その空色を、深い青がじっと見つめた。
「しっかり面倒見ろよ。“兄の親友”として役割を果たせ」
「君は、なんていうか本当に」
そういうところがさぁ、と嘆く口角は、わずかに緩んでいた。
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