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凍て咲く花  作者: 瑪瑙
3/5

雪下の駆引

返事はすぐにはなかった。

エレベーターの前で待っている三宅が、小さく息を吐く。

わずかな間の後、扉越しに少し掠れた声が響いた。

「入れ。」

歪んだ木の扉は、開けるときにキィと嫌な音を出す。

組長室に組長以外の人の姿はなかった。

組長は正面の椅子に腰掛けたまま静馬を見ている。

その目は静馬の内側を見透かしているように思える。

昔から、真正面で目を合われるのは得意ではなかった。

「早かったな。」

「呼ばれましたので。」

「随分と耳が早いじゃないか。」

時計の秒針がとても大きく聞こえる。

気まずい沈黙がしばらくの間続いた。

その沈黙を破ったのは組長だった。

慣れた手つきで煙草に火をつけ、口元へ運ぶ。

「吸うか。」

差し出された箱に視線を落とすが、手は伸ばさない。

「いえ。」

「そうだったな。」箱を直しながら小さく笑う。

煙草の煙がゆっくりと部屋に漂い、視界を霞ませる。

「時間は止まらない。」

煙を吐く姿は貫禄があり、この人には敵わないなと思う。

「わしもいつまでもこの座に居続けるわけにはいかない。」

「まだ早いのではないですか。」

「何がだ。」

組長は眉を片方だけあげて、静馬に聞く。

「あなたが退くには、です。」

「お前は若いな。」

短く笑いながら、本心なのかも分からないような言葉を口にする。

静馬は視線を逸らさない。

「できるところまで、やってください。深月区はあなたによって保たれている。」

煙草が灰皿に押しつけられ、やがて火が消えた。

「では、あれはどうだ。」

「あれ、とは。」

「水陰だよ。最近動きが露骨すぎる。」

玲司と接触したことが知られているのかと思い、どきりとする。

「昔から、用心はしていました。ただ――ここまで表に出る男ではなかった。」

幸い組長は、静馬が玲司に接触したことについて咎めてくることはなかった。

「止められるか。」

「…止めるつもりはありません。」

組長の目つきが変わる。

だが、静馬は続けた。

「やり方が気に入らないだけです。」

組長は未だ静馬の目を捉えたままだ。

ふたりは口を閉ざす。

「だから、お前だ。」

再びライターで煙草に火をつけ、煙を吐く。

その煙は、静馬から何かを抜き取るかのように、部屋を包んだ――。


外の空気は冷たく、流れる風は深月区の寂れた街に溶け込んでいくようだ。

スマホの画面を見ると、時刻は午前五時三十八分。

雲が多いからか、まだ辺りは薄暗く、太陽を捉えることはできない。

車の方向へ歩きながら、静馬は思った。

水陰の動きも、この街の事も、組長は既に知っている。

この街で自分ができることは何か。

冷たい風が頬を撫で、背筋がしゃんと伸びる。

静馬の足取りは軽くも、遅くもない、ただ確かに前に向かっていた。

遠くの方で、金属がぶつかる様な音がした。

静馬は足を止め、目線を音の鳴った方へ向けた。

だが、何も見えない。

確かに背後で、何かが動く気配を感じた。

この時静馬の感じた気配は単なる偶然なのか、それとも――。


静馬が組長と面会してから、二日が経過した日の午後、秋桜はまた、潮見中央公園に来ていた。

冬の光は柔らかく、風が少し冷たい。

秋桜はなぜ自分がこの公園にいるのか分かっていない。

たまたま会社が休みだったので、午前中は家でゴロゴロしていた。

暇だしどこかへ出かけようと思いいたり、適当に歩いていたのだが、無意識のうちにこの公園に来ていた。

この公園に来れば、また彼に会えるかもしれない。

と思っていなかったといえば嘘になる。

お礼のメッセージを送信した日から、既に二日経っているが、未だ返信は来ないままだ。

既読がついているということは、一応見てはくれたのだろうか。

別に返信が欲しいわけではなかった。

ただ、あの日の出来事を無かったことにされたくない。

海は秋桜の心情など知らんぷりで、よってはかえし、よってはかえし、といつもの動きを繰り返している。

今日はこの前と違い、平日ではない。

だからなのか、多いとは言えないものの、人はまばらにいる。

夫婦と思われるおじいちゃんとおばあちゃんがふたり、秋桜と同じようにベンチに座り、海を眺めている。

海を指さして何かを話している様子は、はたから見るとかわいくて、微笑ましかった。

その他にも砂浜に絵を描いて遊んでいる子供が三人、そして、堤防に腰掛けて海を見ている男の人が一人。

なにに引っかかったのか、違和感を覚える。

距離があったので、少し違和感を感じる程度だったが、その人には見覚えがあった。

もしかして、と思った。

こんな事が起こるんだろうか。

少しだけ近づいて、また確認する。

こんなことならメガネを持ってくるべきだった、と後悔しつつ、目を細める。

俯きがちな顔のせいではっきりとした確信はないが、服装や、横顔は秋桜が覚えているものだった。

何故か忍び足で近寄る。

秋桜が足音を立てないように近づいたのは、静馬からただならぬオーラのようなものを感じたからだ。

放っておいてほしいと顔に書いてあるようなものだった。

もう、首元から包帯は見えない。

その代わり顔色はこの前会った時よりも悪く、やけに白く見える。

本当に傷は直ったのだろうか。

声をかけるべきか、悩む。

「あの…」小さい声で話しかけてみる。

俯いていた顔を上げて、秋桜の方を見る。

「ああ、お前か。」

怒鳴られる事を覚悟していたのに、あっさりと流されてしまい、拍子抜けした。

また俯いてしまい、気まずい空気になったので、秋桜は迷った末、一定の距離を空けて腰を下ろした。

聞きたいことは山ほどある。

何から聞こうか考える。

やはり、傷の具合が気になったので、まずはそれを聞く。

「傷はどうですか。」

長い間返事が来ないので、聞こえていないのかなと思っていたとき。

「問題ない。」

とぶっきらぼうな返事が返ってきた。

聞こえてたなら早く答えてよ!と言いたいところだが、我慢した。

その代わりに少し意地悪な質問をしてみる。

「じゃあ、抜糸いつですか。」

「うるせえな。」

そんな事をいいつつ、抜糸の日付を教えてくれた。

やっぱりすぐには抜けないんだな、なんて当たり前のことを考えていると、今度は静馬が口を開いた。

「あんた、暇なのか。」

確かに土曜日とは言え、こんなところで他人に世話を焼いている私は、暇なのかもしれない。

「まあ、暇ですね。」

「暇じゃなかったら来てませんし。」

会話が終わってしまうのが億劫で、付け加える。

何か話を広げる方法はないかと必死に考えを巡らせていると、いいことを思いついた。

「抜糸ちゃんと行きますか。」

「行く。」

「本当ですか。」

「本当だ。」

「行かなかったらどうするんですか。」

静馬が面倒くさそうに秋桜を見る。

「終わったら連絡する。それでいいだろ。」

これで自然に別れられるし、傷が直ったかどうかも確認できる。

我ながらいい作戦だったなと自惚れる。

「お前、策に乗せたつもりか。」

予想外の発言に、「え…」と間抜けな声が出る。

秋桜の反応が面白いのか、フッと短く息を吐きながら、「顔に出過ぎだ。」と言った。

それだけ言って静馬は堤防から腰を浮かせた。

「じゃあな。」

秋桜が唖然としている間に背中が遠ざかっていく。

さっきまで隣りにいたのに、急に距離ができた気がした。

でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

家に帰ってから、鏡の前で自分の顔をじっと見つめる。

「そんなにわかりやすいかな…」

そう呟きながら、口元をぎゅっと引き締めてみた。


あれから一週間程経ち、秋桜が会社へ出勤する準備をしていると、スマホが振動した。

通知には「終わった。」とだけ書いてある。

あまりにも短すぎる報告に笑ってしまう。

「本当に終わりましたか?証拠あります?」

しばらくして、写真が送られて来た。

それを見て、今度は声が漏れた。

写真には包帯の取れた傷が写っているが、全然ピントが合っていないし、角度も垂直すぎる。

「ちょっと待ってください。何この角度。」

「普通だろ。」

「なんか暗いし、遠いし、適当すぎます。」

「文句が多いな。」

「顔に出てますよ。雑って。」

「うるせえな。」

その一言に、秋桜は満足そうにスマホを閉じた。

いつもより足取りが軽い。

鏡の前で引き締めた口元が、少しだけ緩んだ。


病院の裏口は相変わらず人がいない。

表を使えと言われたこともあったが、静馬はいつもこちらから入る。

理由は特にない。

ただ落ち着くからそうしているだけだ。

「抜糸だけだから、すぐに終わりますよ。」

白衣の男は淡々と告げ、必要な事しか聞かない。

静馬も答える気はない。

処置は本当にすぐ終わった。

包帯が外れ、「問題なさそうですね。」と鏡を見せられる。

小さく頷いた後、礼も言わず、立ち上がった。

外に出てから、ポケットの中のスマホを取り出す。

少し考えた後、文字を打つ。

「終わった。」

送信ボタンを押すと、静馬が電源を切るより早く、既読がついた。

「暇かよ。」

そう呟きながらも、表情はどこか柔らかい。

「証拠あります?」

という文字を見て溜め息をつく。

写真なんて撮るのは何年ぶりだろう。

一枚目、ぶれる。

二枚目、近すぎる。

三枚目、これでいいか。

結局妥協することになったが、特に気にしていなかった。

しばらくして、送られてきた文句の羅列に鼻で笑う。

「顔に出てますよ。雑って。」

「うるせえな。」

誰もいない駐車場で呟き、スマホをポケットに入れる。

数歩歩いたところで、立ち止まった。

既読のついた画面をもう一度だけ確認してから、ようやく歩き出した。


その日の夜、静馬は玲司の事務所に、連絡も入れずにやってきていた。

なんの確認もせずに、建物に入ろうとする静馬を若い衆が止めようとするが、「通せ」と睨みながら言われると、抵抗はしても、無理やりに止めてくるものは居なくなった。

騒ぎを聞きつけたのか、扉が開き、玲司が出てくる。

「珍しいですね。あなたから尋ねてくるなんて。」

玲司はせせら笑う。

周りで戸惑っている若い衆に下がるよう合図をして、静馬を奥の部屋に通した。

「なんのご用でしょうか。」

「紅茶でもお出ししましょうか。」

この男の発言はいつも、静馬の神経を逆なでる。

「最近、動きが露骨すぎだ。なぜそんなに急ぐ。」

「止めに?」

止めに来たのなら、面会などしていないだろう。

「違う。」

「お前のやり方が気に入らない。」

この時、玲司から一瞬笑みが消えたのを、静馬は見逃さなかった。

部屋にはピリピリとした空気が流れ始めていた。

こいつが再編を急いでいる理由も、こんなやり方をする理由も、静馬は恐らく知っている。

それを確認するために、玲司の核心には触れないように、探りを入れる。

「そんなことを言いに来たのですか。」

さっきほどの緊張感はないものの、玲司の声色は明らかに変わった。

それでも、静馬は続けた。

「止めはしない。ただ、一線は越えるな。」

「あなたは、私がなんの考えもなく、こんな事をしているとお思いですか。私はあなたが思っているほど、子供ではありませんよ。」

玲司は机の縁を強く叩く。

これ以上はまずいか、と思い「用はこれだけだ。邪魔したな。」と一人、立ち上がって部屋を出ていこうとする。

扉に手をかけた時、「あなたの周りは、ずいぶん賑やかになりましたね。」

玲司は立ち上がりながら言った。

「気をつけたほうがいい。」

静馬は振り返らず、そのままこの事務所を後にした。


まだ冬の寒さは残っていて、人気のない住宅街のアスファルトにも雪がしんしんと降っている。

この時期は日が沈むのが早く、午後七時には辺りは真っ暗だった。

街灯の光だけが、進むべき道を照らしてくれている。

秋桜はカーキのコートを羽織って、まだ雪の積もっていない道を歩いていた。

すると、あの時と同じ、黒い車が秋桜の前で止まる。

この光景は嫌なほど見覚えがあった。

窓が下がり、不気味なほど柔らかい声で話しかけられる。

「お仕事お疲れさまです。秋桜さん。」

その時、何故か、「顔に出過ぎだ。」とこの前静馬に言われたセリフを思い出した。

一瞬だけ鼓動が跳ねる。

でもすぐに呼吸を整えた。

目を細めて、少し首を傾けながら余裕のある表情で言った。

「お久しぶりです。こんなところで奇遇ですね。」

心を読まれてはいけない、と思った。

玲司は数秒秋桜の方を見つめる。

それから、フッと笑い「ええ、奇遇ですね。」と楽しそうに言った。

何秒か、間が空く。

雪の振り積もる音まで聞こえそうだ。

試されているのだろうか。

「少し、お時間いただけますか?」

命令ではないのに、断らせないというという意思を感じるのがこの人の怖いところだ。

バックの紐を強く握って微笑んだ。

「少しだけなら。」

これが震えていないかと心配になる。

車のドアが開く。

乗る前、秋桜は少しだけ下を見る。

「大丈夫。顔には出てない。」

心のなかで自分に言い聞かせる。

ドアの閉まる音が外の世界から切り離される音のように聞こえたのは、怖いからじゃない。

「最近、公園には行かれていないのですね。」

心臓が止まりそうになる。

でも秋桜は笑って返した。

「寒いですから。」

玲司の視線は秋桜から離れない。

その目がもっと奥まで覗いているようで、恐ろしかった。

「そうですか。」

意外にも、返ってきた言葉はそれだけだった。

はずだった。

けれど、玲司は視線を逸らさない。

秋桜は目を逸らしたくて、窓の外を見る。

「最近、あなたの周りが少し騒がしいようで。」

曇った窓越しに見える街灯の光は、秋桜の背中を押しているようだ。

「そうですか?」

穏やかに言ったつもりだったが、語尾が上がる。

玲司の指がハンドルを軽く叩く。

「ええ、例えば――」

そこで言葉を切る。

車内にはエンジンの音だけが木霊している。

「心配してくださってるんですか?」

おちゃらけた様子で言ってみるも、沈黙は破れない。

玲司がこちらを向く。

「心配、ですか。」

この人の声から感情を読み取ることはできない。

「あなたは人を信じやすそうだ。」

秋桜の右手が、コートの裾を強く握っているのを玲司に見られた気がした。

「そう見えます?」

口角を無理やり上げる。

ばれてはいないだろうか。

雪がフロントガラスに当たり、すぐに溶ける。

「気をつけてください。」

何に、とは言わない。

「今日はここまでにしましょう。このまま家まで送りましょうか?」

何と言えば断れるだろうか。

秋桜は一刻も早くこの車から降りたかった。

「寄りたい場所があるので、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」

今度は上手く笑えていたと思う。

「では、またお会いしましょう。」

そう言って車の扉を開けた。

外の風が流れ込んでくる。

その後車は静かに走り去った。

一人になった後、秋桜は静かに息を吐いた。

さっきまで袖を掴んでいた手がまだ冷たいままだ。

顔に出ていなかっただろうか。

雪はまだ降り続いていおり、やむ気配はない。

今夜はよく積もりそうだ。


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