第三十二章:揺れる距離、重なる鼓動
朝靄に煙る林の外れ、小さな野営地に焚き火の名残がくすぶっていた。
薄く差し込む朝日を受け、ファナはゆっくりと目を開けた。
寝袋の中でまどろみながら、昨夜の出来事が心の奥にふわりと浮かび上がってくる。
──メルのまっすぐな言葉。
──セナの静かなまなざし。
──リクトの、言葉にしない感情。
ひとつひとつは小さな波紋のようだった。
でも、確かに心の中で重なり合い、静かに輪郭を持ち始めている。
「“好き”って、こんな風に残るのかな……」
まだわからない。
でも、昨日よりも少しだけ、
誰かの気持ちに近づけた気がした。
出発準備が進む中、メルが軽やかに歩み寄ってきた。
「おはよう、ファナ」
いつもの芝居がかった調子は鳴りを潜め、代わりに柔らかな微笑が浮かんでいた。
「昨日のこと……覚えていてくれたなら、それだけで嬉しい」
ファナは思わず視線を逸らす。
「うん……あの、忘れてないよ」
返ってきた彼女の声は小さかったが、言葉には確かな重みがあった。
その様子を、少し離れたところからリクトが見ていた。握った拳に力がこもる。
列を組んでの護衛が始まり、山道を行く一行の中、ファナとメルが偶然並んで歩く形になる。
「……昨日の告白、真剣だったんだ」
メルの声は、穏やかだがぶれることがなかった。
「今、無理に答えを出せなんて言わない。でも、僕の想いだけは、ちゃんと伝えておきたくて」
ファナは俯いたまましばらく無言だったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……私、よくわからないんだ。“好き”って何か、まだちゃんとわからない」
「でも……昨日、メルの言葉を聞いて、胸の奥が、あたたかくなった気がした」
メルは優しく微笑み、足を止めることなくその歩幅を合わせるだけだった。
昼過ぎの休憩中、リクトは一人で剣の手入れをしていた。
そこへセナがふらりと現れ、石の上に腰を下ろす。
「やあ、いい天気だね」
「……何の用だよ」
ぶっきらぼうな声に、セナは肩をすくめた。
「用ってわけじゃないけど。……昨日のメル、すごく真っ直ぐだったと思わない?」
リクトは何も言わず、黙って石を手のひらで転がす。
「君はどうするの?」
セナの言葉に、リクトの手が止まる。
「“ファナのことが好きだ”って……君、もう言ってしまってるんだよ?」
「うるせぇ」
リクトは吐き捨てるように言ったが、声には焦りが混じっていた。
セナは静かに続ける。
「……彼女、君にはまだ見せていないような表情を、メルには向けていたよ」
「驚いて、でも少し笑って。僕らが見たことないような、優しい顔だった」
沈黙。
リクトの拳が石をぎゅっと握りしめる。
「君の良さは、まっすぐで、ひたむきなところだと思ってた」
「だけど、今の君は……その剣をどこに向ければいいのかも、わからなくなってるように見える」
リクトはぐっと睨み返したが、セナの瞳は揺るがなかった。
「……俺は」
一言、そう口にしかけて、リクトはそれ以上言葉にできなかった。
だが、その沈黙が、彼の中に灯った炎を隠しきれていないことは、セナにも分かっていた。
その夜。
一行は林の中に簡易な宿営地を築いていた。
焚き火がぱちぱちと音を立て、あちこちで食事の準備が進む。
少し離れた場所で、ファナが空を見上げていた。星が静かに瞬く。
(“好き”って、どういうことなんだろう)
昨日より今日、
今日より明日。
ほんの少しずつ、答えに近づいている気がした。
背後には、リクトの姿。
彼は焚き火の向こうから、じっとファナの背中を見つめていた。
(もう、あれこれ考えるの……やめる)
彼の瞳に、炎の揺らぎが映っていた。
「……俺も、ちゃんと向き合う」
低く、でもはっきりとした声で、リクトはそう呟いた。
夜空は深く、誰の胸にも、熱を秘めた風が吹いていた。




