第二十七章:わからない気持ち
朝の光が、細いカーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
ファナは毛布の中で身を小さくしながら、天井を見つめていた。
昨日の出来事が、頭の奥でぼんやりと渦を巻いている。
静かな薬草倉庫。背後から誰かが近づいてきたこと。
不意に触れられた感触。それをどう受け止めていいのか、まだ分からない。
「……嫌だった、かもしれない」
ぽつりとつぶやいたその声は、朝の部屋に吸い込まれていった。
けれど、怖くはなかった。驚いただけ。ただ、なにかが胸に引っかかっている。
それは昨日の夜、レリアおねーさんに言われた言葉のせいかもしれない。
「嫌なことは、嫌って言っていい。“ファナだから”よ」――その声が、頭の中で何度も反響していた。
それからもうひとつ。
リクトの言葉。――「オレ、ファナのこと、好きなんだよっ!」
偶然聞いてしまったその声が、心の奥で何度も跳ね返っている。
「……好きって、なんだろう」
今度は声には出さなかった。ただ、胸元をそっと押さえた。
その時、隣のベッドから柔らかな寝息が途切れた。
レリアが、薄目を開けてゆっくりと身を起こす。
「……おはよう、ファナちゃん。もう起きてたの?」
「うん……なんか、目が覚めちゃって……」
レリアは微笑みながら身支度を始める。髪を整え、旅用のドレスの袖を通す音が、朝の静けさを優しく揺らした。
しばらく迷った。けれど、口を開かないままでいるには、胸の奥があまりに落ち着かなかった。
「……レリアおねーさん」
レリアが手を止めて、やわらかく顔を向ける。
「昨日……リクトに、“好きだ”って……言われたの」
少し驚いたように眉が動いた。でも、それはすぐに落ち着いた微笑みに変わった。
「そう……聞こえたんだね」
「うん。でも……わたし、それがどういう意味なのか、よくわからないの」
ファナの声は震えていないけれど、自分でも気づかないほど小さくて、不安げだった。
レリアは隣のベッドに腰かけ、ファナの肩にそっと手を添えた。
「ファナちゃん、“好き”って言葉にはね、いろんな意味があるの」
「友達として好き、とか……優しさを嬉しいと思う気持ちとか。
でも、特別な誰かに向ける“好き”は……それがどういうものか、自分の心が教えてくれるのよ」
「自分の……心が?」
「うん。すぐには分からなくていいの。時間をかけて、少しずつ気づいていくものなのよ」
ファナは黙ってレリアの顔を見つめた。あたたかくて、静かで、どこか懐かしい眼差しだった。
「それにね、昨日のこと……あの倉庫でのことだけど、気になってるんでしょう?」
ファナは、はっとして、小さくうなずいた。
「……うん。あの人に……触られたとき……怖くはなかった。でも、胸がざわざわして……変な感じで……」
「それが“嫌”だったってことなの」
「嫌な気持ちになる理由は、いつだってはっきりしてるわけじゃない。でも、嫌だと思ったなら、それが答え」
「……嫌って、言っていいの?」
「もちろん。“ファナだから”よ」
ファナは黙っていた。けれど、手がぎゅっと胸元の布地をつかんだ。
それだけで、心の中に何かが少しだけ形を持ち始めたように感じた。
朝食の時間。
宿の食堂では、木のテーブルにパンと果物、スープが並べられていた。
ファナは口数少なく、けれど落ち着いた様子でパンをかじっていた。
その向かい側、無言のままスープをすするカイルの姿。
カイルはファナの方をちらりと見て、それから視線をレリアへ向ける。
レリアは短くうなずき、「ちゃんと話したわ」と静かに告げた。
カイルはそれに対して、ただ一言だけ答えた。
「……ああ」
その言葉には感情がこもっていなかった。だが、ファナの様子を見守る目だけは、優しくも真剣だった。
何も言わなくても、“守る”という意思が、彼の背中ににじんでいた。
ギルドへ向かう道。
ファナは小さく息を吐きながら、並んで歩くリクトの顔をちらりと見た。
けれど、その目はすぐに逸れて、足元の小石に落ちた。
リクトもまた、同じように視線を合わせず、ぎこちない沈黙だけが二人の間に落ちる。
その様子を背後から眺めていたセナは、ひとつため息をつき、肩をすくめた。
「……まあ、いいか」
ぽつりとつぶやいて、微笑だけを残した。
言葉にすれば、壊れてしまいそうな空気。けれど、確かにそこには、何かが始まりかけていた。
ギルドの扉をくぐると、受付の職員が顔を上げて、三人に声をかけた。
「今日はまだ依頼が出てないけど、午後には村から護衛の依頼が来るかもしれないよ」
リクトが反応する。
「暁鋼の牙はどうしてんの?」
「別件で動いてるらしいわ。あっちも大変ね」
続けて職員が言った。
「それまで、もしよかったら雑務を手伝ってもらえると助かるんだけど……」
ファナたちは顔を見合わせ、うなずく。
そしてそれぞれの持ち場へと向かっていく。
リクトは倉庫の荷運び、セナは帳簿の整理。
ファナは、広場の縁で荷の整理をしながら、ふと立ち止まった。
陽の当たる石畳。そこは昨日、子どもたちに物語を語った場所だった。
ふと、耳元で小さな声が聞こえた気がした。
「またお話してね、おねえちゃん!」
ファナはそっと微笑み、胸の奥で確かめる。
「……語るのって、やっぱり……好き、かも」
語り部だった過去も、何もかもすべて忘れたわけではない。
自分にできることは、まだちゃんと、心の中に残っている。
それがきっと、今の自分。
そして、わからない気持ちのひとつひとつが、これからゆっくりと育っていく。
そんな、気がした。




