第七章:— 揺らぐ影の中で —
ファナは、ゆっくりと村の門をくぐった。
レリアの旅装束を借り、頭には深めのフードを被っている。
耳は隠れ、尻尾も厚手のマントの下に巻き込んだ。
だが、全身に走る緊張は隠しきれなかった。
村は思ったよりも穏やかで、空には澄んだ初夏の光が広がっていた。
小川が流れ、軒先に干された洗濯物が風に揺れている。
獣人を見れば石を投げてきた人間の姿を思い出し、警戒心を強めていたファナは、その静かな空気に戸惑った。
「ファナ、大丈夫。無理に話さなくていいから」
隣で歩くレリアが、そっと声をかけてきた。
彼女の顔には、変わらぬ柔らかさがあった。その眼差しの中に敵意はなく、ただそっと手を差し伸べるような温度だけが宿っている。
ファナは無言で頷いた。
レリアの案内で、二人は村の小さな薬草舎へと入った。薄暗い木の室内、乾いた草の香り。
レリアはすぐに棚の薬壺を確認し、手早く道具を並べていく。
その様子をファナは端の椅子に腰掛け、じっと見つめていた。
ふいに、扉が軽くノックされた。
「レリア先生、お帰りなさい。あの……村長が少しお話したいと」
若い少女の声。ファナは瞬時に身を強張らせ、腰の短刀に手をかけた。だが、レリアが静かにその手を取った。
「大丈夫。彼女は私の助手よ。敵ではないわ」
ファナは黙ったまま、ゆっくりと手を離した。
少女―名をエミナというらしい―はファナに気づいても驚きはせず、にこりと笑って頭を下げた。
「こんにちは。ご滞在のあいだ、お水とかお食事とか、お持ちしますね」
その言葉に、ファナは何か言い返そうとして口を開いたが、声が出なかった。
彼女の中で、人間とは恐ろしいもの、害をなすもの、そう刻まれていたはずだった。けれど、この娘は……笑っていた。
「……なぜ……」
ファナの口から、掠れた声が漏れた。
「え?」
「……なぜ、私に、そんな……」
「そんな?」
「優しくするの……?」
その瞬間、室内が静まり返った。エミナは少しだけ戸惑いの色を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「だって、レリア先生が大事にしてる人だから。だから、私にとっても大事です」
それは、あまりに真っ直ぐな言葉だった。
まるで子供のように、打算も疑念もない、ただの優しさ。
ファナは、思わず視線を逸らした。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
彼女は、森の焼ける音を知っている。弟の手を引いて逃げた夜の叫びを覚えている。
長老のエルの、最期の言葉を。そのすべてが、今のような優しさとは正反対にある。
なのにどうして―
レリアと共に過ごす数日間、村の人々は誰一人としてファナに敵意を向けることはなかった。
薬草を取りに山道へ同行すれば、子供たちが彼女に笑いかけ、村の老婆は干しリンゴを差し出してくれた。
「元気、なさそうだねえ。これ、食べるといいよ」
「……ありがとう」
自分でも驚いた。口から自然に出たその言葉。
(……私は、こんなふうに……人と)
それでも、夜になると眠れなかった。
焚き火の影に映る己の手を見るたび、そこに焼け焦げた森の残像が浮かぶ。
優しさを受け取るたび、罪悪感が胸に積もる。
(私は、生きていていいの?)
ある晩、薬草舎の裏手にある小さな丘に登った。
夜風に耳が揺れ、フードを脱ぐと静かに月明かりが射した。
彼方に広がる山々。ファナはそこで、一人で小さく膝を抱えた。
「……わからないよ……お父さん、お母さん……」
「貴女は、まだ自分を許せていないのね」
背後で、静かな声がした。レリアだった。
「私はね……ずっと、誰かのせいにしていたの。帝国のせいで家を失った。でも、そう思い続けると、自分の命もどこか他人のものになってしまうの」
ファナは顔を上げ、レリアを見た。焚き火とは違う、月の光が彼女の髪に落ちていた。
「……貴女は、自分の命を取り戻すために、ここに来た。そう思ってもいいんじゃない?」
その言葉に、ファナは何も返せなかった。
ただ、夜の冷たさと、レリアの言葉のあたたかさが胸に沁みていくのを感じていた。
まだ、心の扉は固く閉ざされていた。
けれど、その扉の向こう側で、小さな音がした。
それは、きっと―希望の音だった。




