第六章:――優しき声、白き手
風が、山の谷間をすり抜けて吹き抜けていく。
岩肌にはまだ夜露が残り、靄がかすかにかかっていた。
峠を越え、少し下ったその先に、幾つかの小屋が肩を寄せ合うようにして建つ、小さな集落が見えた。
ファナは、その姿を目にしたとき、ふらつきながらも歩を進めた。
脚が震える。喉はからから。火照る額に手をやると、指先に熱が残っていた。
高熱だった。気づけば、まっすぐ立つことさえ難しくなっていた。
「……っ……あ……」
視界がぐらりと揺れ、足元の石に躓いた瞬間、世界が反転する。
硬い地面が頬を打ち、耳の奥で鼓動がどくどくと鳴った。
そこで、意識が遠のいた。
「……水を、口元に……ああ、起きた? よかった」
柔らかな声だった。穏やかで、どこか揺らぎのある声。
ファナがうっすらと目を開けたとき、視界には白いフードをかぶった女性の顔があった。
肩まである赤褐色の髪。大きな瞳は琥珀色で、どこか哀しみを秘めた光を宿している。
――人間だ。
ファナは一瞬で目を見開き、背筋を伸ばし、体を起こそうとした。咄嗟に腰の小刀に手を伸ばし、鞘から引き抜く。
「近寄らないで……っ!」
震える手。刃の先が、彼女の胸元に向けられた。
だが、女性はひるまず、ただ静かに言った。
「……私は、敵じゃないよ」
「うそ……帝国の人間でしょ。仲間を、村を……!」
「私の父も、帝国に家を奪われたの」
その言葉に、ファナの手がぴたりと止まった。
女は、ゆっくりとフードを外す。
首元に巻かれた布を外すと、そこには焼けたような痕が広がっていた。
「……私はレリア。旅の医師よ。獣人でも人でも関係なく、傷ついた人を助けてる」
ファナは目を見開いたまま、刃を下ろせなかった。
レリアは、それでも一歩も退かず、そっと手を差し出した。
「……私に、貴女を守らせてくれない?」
風が吹いた。二人の間を、花びらのように落ち葉が通り過ぎる。
ファナの心は、その一言に揺れていた。
誰かが、自分に「守らせて」と言ってくれたのは、初めてだった。
レリアの診療用の馬車には、旅装束や薬箱が積まれていた。
「この帽子で耳を隠して。このマントで尻尾も」
レリアは、獣人であるファナが人間の町に入れるように、様々な工夫を教えてくれた。
「そんなにしてまで……どうして、私にそこまでするの……?」
レリアはふと立ち止まり、小さく笑った。
「昔、助けられたことがあるの。何も持たず、誰にも信じてもらえなかったとき……たった一人、信じてくれた人がいた」
「その人に、返す代わりに。今度は私が、誰かを信じて守るの」
ファナは、何も言えなかった。
信じたい。けれど怖い。また裏切られるのが、また見捨てられるのが。
だが、今の自分に、選択肢などなかった。
ファナはゆっくりとマントを羽織り、レリアに付き添って町へと向かう。
町の門では、帝国の旗が掲げられていた。
緊張でファナの耳がぴくりと動く。だが、フードの下なら気づかれない。
「大丈夫。私の診療証があれば通れるから」
レリアの声に押されるようにして、門をくぐる。兵士はちらりと彼女たちを見ただけで、通過を許した。
息が詰まるほどの緊張の中、町に入った。
露店、子供の声、人々の笑い声。帝国領の町でさえ、平穏な日常が広がっていた。
ファナには、そのすべてが遠く、眩しく感じられた。
「ここに、泊まって。食事も、休息も必要よ」
小さな宿屋の一室。温かなスープの香り。布団の柔らかさ。
ファナは、そこに座り込むと、胸を押さえた。
「……優しくされると……壊れそうになるの、私」
震える声でそう呟くと、レリアはただ、そっとその肩を抱いた。
「壊れてもいい。私は、そばにいるから」
その夜、ファナは初めて――泣いた。
悲しみでも、悔しさでもなく。
ただ、「信じてもいいのかもしれない」という、光のような涙だった。




