第五章:――焔の記憶と凍える夜に
燃えた髪の先が風にさらされ、焦げた匂いがまだ鼻先に残っていた。
それでも、ファナは歩き続けていた。
左膝の傷はすでに固まりかけた血でかさぶただらけになり、右肩に走る痛みは、逃走中に折れた枝で打ったままだ。
衣服はぼろぼろ。元は深緑の織り布で仕立てられた民族衣装だったが、今では焼け焦げと泥、血の色に染まって、どこかの浮浪者のような姿だった。
彼女の耳も、尻尾も、だらんと力なく垂れていた。
あの夜、ラゼンの森を抜けて以降、ファナはただ“西”へ向かって歩いていた。
森の北も東も、すでにガルミア帝国の支配が及んでいる。
唯一、帝国の手がまだ完全に届いていない西――「グラナの山地」を越えれば、なんとかなる。そんな、希望というより妄信のようなものにすがって、脚を止めなかった。
山道に差し掛かったとき、足を止めざるを得ない出来事があった。
幾日も歩き続け、すでにまともな食料は尽きていた。水場も見つからない。
乾いた喉を何度も手の甲で拭っていると、小さな農村が見えてきた。
人間の村だった。
木柵に囲まれ、わずかな畑と民家が並ぶだけの集落。帝国の旗はなかったが、帝国に協力する村も多い。危険ではあったが、このまま飢えれば動けなくなる。
ファナは覚悟を決め、顔の泥をぬぐい、耳を布で隠した。
「少しだけ…パンの耳でも、水でもいいから……」
村の端に腰を下ろしていた老婆に、か細い声でそう言ったときだった。
「あいつ、獣人じゃねえか!」
鋭い叫び声と同時に、石が飛んできた。
頬に鈍い衝撃と痛み。数秒後、別の方向からも石、石、罵声。
「帝国に仇なす化け物!」「疫病神が!」「出ていけ!」
「違う…私は……っ!」
耳を隠した布が取れ、猫の耳が露わになる。
村の子供がそれを見て、泣き叫びながら母親に抱きついた。
ファナは、夢中でその場を逃げ出した。
転び、また走り、血まみれになりながら、森の外れまで辿り着いた。
夜になった。焚き火もできない。身体を丸め、草むらの中でじっとしている。
虫の声も、風の音も、遠くで聞こえるフクロウの鳴き声も、すべてが冷たく感じた。
「…寒いな……リッカ……」
小さく、弟の名を呟く。
もうすぐ山地に入る。人が少ない分、帝国の兵も少ない。だが、獣も多い。雪も降る。生きて越えられる保証はどこにもない。
「みんな……死んじゃったのに……」
ぽた、と涙が土に落ちた。
父と母、長老エル、村の皆、そして――弟のリッカ。今は他部族の知人に託した。だが、再会できる保証はどこにもない。
「私だけ、生きてる……」
誰もいない夜の野原で、吐き出したその声は、自分でも信じられないほど弱々しかった。
「生きてて……いいのかな……」
やがて彼女は、濡れた草の上にうずくまり、静かに、泣いた。
心が壊れそうだった。喪失に、罪悪感に、恐怖に、孤独に。
だが、空の向こうで、うっすらと東の空が白み始めていた。
その光が、彼女の頬をわずかに照らしていた。
まるで、まだ行けると、まだ歩けと、言っているように。




