幕間:闇と灰のあいだ
森を抜ける獣道の先、炎の音がまだ耳に残っていた。
ラゼンの森は今も静かに揺れているのに、ファナの中だけは嵐が止まらない。
「リッカ……ついてきて、お願い……っ」
小さな手を握り締め、ファナは森を駆けていた。弟の顔色は悪く、体は熱を帯びていた。
無理もない。あの煙と火の中を、裸足同然で逃げてきたのだ。
「大丈夫、すぐ水場がある……そこで……ひとまず休もう……」
ファナは記憶の中の地図をたどるように、獣道の奥へ進む。
かすかに聞こえる水音に導かれ、ようやく一つの泉に辿り着いた。
光の差さぬ木々の陰。けれど泉は澄んでいて、冷たい水が命のように感じられた。
「リッカ、飲んで……」
彼女は弟の口元に手を添え、水を含ませようとする。
だが、リッカは震えていた。意識はあるが、言葉を話す力が残っていない。
彼の瞳は、遠くを見つめるように虚ろだった。
「ねえ……っ、リッカ……私、ここにいるよ。大丈夫だから……ね?」
涙が出そうだった。けれど流せなかった。
流したら、そのまま崩れてしまいそうで。
ファナは弟を抱きしめ、身体を自分の外套で包んだ。
夜の寒さが皮膚に刺さる。震えが止まらない。
それでも、しばらくはふたりで、森の中にいた。
互いの鼓動だけが、生きている証だった。
——そのときだった。
足音がした。
気配に反応してファナが身構えると、獣人の小柄な影が二つ、木々の間から姿を現した。
それは、森の北端に住む遊牧部族の子どもたちだった。ラゼンの村とは交易の縁があった。
「ファナ……? 君、生きてたの……!」
一人の少年が驚いた顔で駆け寄ってくる。
「お願い、弟を……お願い……!」
言葉が詰まりながらも、ファナは叫んだ。
少年たちはすぐに手を貸し、リッカの身体を布で包み、抱えてくれた。
「俺たち、家族と一緒に北の隠れ谷に逃げてたんだ。君も一緒に……!」
そう言われたとき、ファナは一瞬、頷きかけた。
でも、足が動かなかった。
「私は……行けない」
「えっ?」
「私は、まだ……探さなきゃならない。父さんと母さんを……エルのことも……それに、村の人たちも……」
少年たちは言葉に詰まった。
森の焼け跡を見た彼らには、その「希望」が現実には見えなかったからだ。
けれどファナは、弟の手を取って言った。
「リッカ、いい子にしてて。……必ず、迎えに行くから。絶対に、また会おうね」
リッカの目が、少しだけ揺れた。
小さく、かすかに、頷いたように見えた。
少年たちは静かに弟を抱え、森の奥へと姿を消していった。
ファナはしばらく、そこに立ち尽くしていた。
ひとりになった。
本当に、ひとりになった。
衣服は焼け落ち、肌には傷。
身体も心も、限界に近かった。
でも、それでも。
生きなきゃいけない。
あの夜を、生き延びた意味を——いずれ見つけるために。
彼女は、もう一度だけ涙を飲み込み、森の深奥へと歩き出した。




