第四十一章:— 君の名に宿るもの
風の匂いが変わったのは、午後の入り口だった。
木々の間に混じる土と獣の香りに、ファナはふと足を止めた。
「……このあたり、獣人の集落があったはずだって、聞いたことがある」
レリアが地図を折りたたみながら呟く。
「帝国の記録では“無人区域”とされているけど、それはつまり……残す価値がないと見なされた場所よ」
カイルが険しい顔で周囲を警戒しつつ、森の奥へ目を向けた。
「だが……残ってるかもしれねぇな。“帝国が興味を持たなかった”ってのは、逆に安全ってこった」
ファナは黙ってうなずいた。
なぜか、この森の空気が、懐かしいような、でも不安を煽るような、妙な感覚を運んでいた。
小一時間ほど進んだ先で、道が開けた。
木の幹を編んだ柵、獣の骨を彫刻のように並べた祠、そしてその奥に――木造の簡素な住居がぽつぽつと並んでいた。
「……本当に、あったんだ」
集落の中央には、古びた石柱が立っていた。
そこに刻まれていた文字は、かろうじてファナでも読める旧獣語だった。
《ラミナの記憶、守りし者の地》
「……ラミナ?」
「“月と森をつなぐ者”って意味よ。古い時代の、巫女か、預言者の名前ね」
レリアが静かに訳す。
そのとき――
「何者だ」
背後から鋭い声が響いた。
若い狼獣人の青年が、弓を構えていた。
「獣の姿をしながら、人間と連れ立っている……さては帝国の回し者か?」
ファナが一歩前に出て、耳と尾を揺らしながら答えた。
「わたしは……ファナ・ラムゼリア。ラゼンの森の出身。……いまは、この二人と旅をしてる」
「ラゼンの森……?」
青年の目が見開かれる。
「まさか……“あの災禍”の生き残りか」
その言葉に、周囲の視線がファナに集まった。
次の瞬間、遠くの見張りが叫んだ。
「外に……帝国の偵察兵! 五人! こっちを確認して――引いた!」
「……見つかったか」
カイルの顔が曇る。
青年は、しばしの沈黙の後に弓を下ろした。
「ここに匿う価値があるかどうか、判断は“長老”が下す。ついてこい」
集落の奥にあった、苔むした古い小屋。
そこには、獣人でありながらしわ深い老婆がいた。
彼女は、ファナの顔を見るなり、じっと見据えた。
「その目……その尾……やはり、あの家の血筋か」
「“あの家”……?」
「ラゼンの森の守り手――ラムゼリアの名は、古くから“語り部と記録者”の系譜を継ぐ者に与えられてきた。
帝国があの森を滅ぼしたのは、“一つの文化”を根絶するためでもあった」
「……文化を?」
「人と獣の境界を“知識と言葉”でつないできた者たちよ。
その血が残っているということは、彼らにとっては“危険な証拠”なのさ」
ファナは小さく息を呑んだ。
「だから……帝国は、わたしを――」
長老はゆっくりうなずいた。
「消したい、あるいは手元に置きたい。それだけの価値が、君の“名前”にはある」
その夜。
カイルとレリアが集落の周囲警戒に出ていた頃、ファナは一人で木の根元に座っていた。
誰にも気づかれないように。
けれど――
「……ずいぶんと、警戒が緩くなったな」
その声に、全身が強張った。
暗がりの中、レオンがひとり、枝の影から姿を現した。
帝国の黒い軽装鎧に、長弓。
けれどその顔には、あの頃のままの静けさがあった。
「……なんで……ここに……」
「見張っていた。お前がここに向かうだろうと、予測していた」
ファナは短剣に手を伸ばしかけたが、レオンはそれを制すように言った。
「今日は……戦うために来たんじゃない」
「じゃあ何のために来たの?」
「お前に、言葉を残すためだ」
ファナは立ち上がる。
震える指を握りしめながら、言った。
「じゃあ、聞かせて。なんで、裏切ったの?」
レオンは目を伏せ、ぽつりと答える。
「任務だった。……だが、それだけじゃない。
俺は“選んだ”んだ。自分の居場所を。自分が何を守るかを」
「でも、守ったのは帝国で、壊したのはラゼンの森だよ!
……わたしの家族や、仲間や、大切なもの全部!」
レオンの瞳が、わずかに揺れる。
「……それでも、お前が生きていると知って、救われた。
あのとき……森を逃げるお前を見て、手を伸ばせなかったことを、ずっと悔いていた」
「悔いてるなら、どうして何も言ってくれなかったの!」
「“お前に、俺を許させないため”だ」
それが、レオンの選んだ“罰”だったのだと、ファナは悟った。
「……次に会うときは、敵同士だ」
そう言い残し、レオンは森の闇に姿を消した。
ファナはその場に、そっと座り込んだ。
手首のブレスレットが、月の光を受けて淡く光っていた。
——まだ、許せない。
——でも、わたしはもう、目を逸らさない。
そう思ったとき、レリアとカイルの足音が近づいてきた。
「何かあったの?」
「……少しだけ、過去と話してた」
「過去?」
「うん。でも、もう逃げない。あの人が何を選んでも、わたしは……わたしの道を選ぶから」
焚き火に、火がくべられる。
その音が、何かの決意に火を灯したように、パチ、と鳴った。




