第四十章:— そして、問いの先へ
朝の空気は冷たく澄んでいた。
昨夜の雨で湿った地面が、ところどころ露をまとっている。
ファナは火の消えた焚き火跡を見下ろしながら、誰にも聞かれぬよう小さく息を吐いた。
(……ほんとに、レオンおにーさんだった)
あの瞳。あの背中。
森を焦がす炎の中でも見失わなかった、“あの人”の姿。
それが帝国の兵装に身を包んでいた光景は、何度思い出しても現実感がなかった。
(……あのとき、私の名前を呼んでくれなかったのは、あれが理由だったの?)
手首に巻いた紺色のブレスレットが、朝の光に揺れる。
「……考えても答えは出ないのに」
独り言のようにこぼした声が、朝霧に溶けた。
その日、三人は山沿いの道を北へ進んでいた。
次の目的地は、補給拠点として選んだ小さな鉱山町「ハルヴィア」。
規模は小さいが、交易路の分岐点に位置しており、さまざまな情報が集まるという。
カイルは先頭を歩き、レリアはファナの隣を歩いていた。
「……ファナちゃん、今日はなんだか静かね」
「うん……ごめんね」
「謝る必要なんてないのよ。ただ……胸の中にしまいこみすぎると、かえって痛くなるものよ」
「……うん」
しばらく歩いた後、ファナはぽつりと口を開いた。
「昨日、子どもに言われたの。“思い出すってことは、忘れたくないってこと”だって。
……なんか、刺さってて」
レリアは頷いた。
「いい言葉ね」
「うん。だから、わたし、忘れたくない。あの人が優しかったことも、裏切ったことも、
どっちも……ちゃんと覚えてたい」
「それは、強い心だわ」
「でも……正直に言えば、まだ……気持ちはぐちゃぐちゃで。
でもそれでも、わたし……会って、ちゃんと聞きたい。“どうして”って」
レリアは、何も言わずにファナの手をそっと握った。
「会って、ちゃんと聞く。自分の言葉で、自分の心で。……それができたとき、きっと、あの人の背中とは違う道が見えるわ」
「……うん」
ファナの目が、少しだけ晴れていた。
そのころ――
帝国首都エイレルの北東、諜報本部の地下。
冷たい石壁に囲まれた部屋の一角で、レオン・ヴァルガスは報告書を読み終え、静かに眉をひそめていた。
「……生存、確認済み。獣人個体“ファナ・ラムゼリア”、同道者二名……」
報告を終えた若い諜報員が言葉を切った。
「お前の元仲間らしいが、なにか補足するか?」
「……特にない。任務を継続するだけだ」
「本部は、彼女を“捕縛”ではなく“確保”と表現している。“処分不要”の指示もある。……理由、分かるか?」
「推測なら。……研究対象として利用価値があると見ている。あるいは交渉材料」
「お前の言葉は、相変わらず冷たいな」
「任務だ」
それだけ言って、レオンは書類を机に戻す。
けれどその目の奥には、氷のような静けさと、ほんのわずかな濁りがあった。
(……ファナ。あの時、お前の名前を呼べなかったのは……俺の弱さだ)
(……今さら言い訳をしても、お前には届かない)
だが、彼の心の奥にあったのは「再会の恐れ」ではなかった。
それはむしろ――「願い」だった。
“今度こそ、お前にちゃんと向き合うことができるのなら”
「任務はどうする?」
「接触は避けられない。……次に遭えば、話をつける必要がある」
「交戦の可能性も?」
「ある」
「……感情は、邪魔になるな?」
レオンは少しだけ目を細めた。
「……必要であれば、処理する」
それは“感情を処理する”という意味にも、“相手を”という意味にも聞こえた。
若い兵士はそれ以上何も言わず、敬礼して部屋を去った。
レオンは再び椅子に座り、天井を見上げる。
「……お前は、どこまで歩いているんだ、ファナ」
自分の足元には、踏みしめた地面の感触がもうなかった。
その夜。
三人は山の稜線が見える小高い丘で野営していた。
星が広がり、遠くの町灯がちらちらと灯っている。
ファナは焚き火のそばで、そっと手をかざしていた。
その隣には、黙って弁当をかきこむカイル。
「カイルおにーさん……前に、誰かを信じられなくなったこと、ある?」
「ある」
即答だった。
「……どうしたの、そのとき」
「信じるのをやめた。代わりに、“背中預けるだけの仲間”って割り切った」
「それって……さみしくない?」
「……そうだな。でも、さみしいくらいが丁度いい。仲間に甘えてると思った瞬間に、死ぬのが俺たちの仕事だった」
カイルは空を見上げて、淡々と続ける。
「でも、お前らと旅してると……少しだけ、さみしくなくてもいいのかもって思う」
その言葉は、焚き火の揺れよりも温かかった。
ファナは小さく笑った。
「じゃあ、わたし……ちゃんと会うよ。
レオンおにーさんに。……どんな答えでも、ちゃんと、自分の目で聞く」
「それが一番だ」
レリアがそっと頷いた。
「あなたが傷ついたときは、私たちがいるから」
「うん」
ファナの胸に、ひとつの小さな決意が宿った。
それはまだ、完全な強さではない。
けれど「前を向く勇気」には、確かに変わりなかった。
星がまたたく夜の下で、三人は小さく焚き火を囲んでいた。
遠くでは、帝国の軍靴が再び地を踏みしめようとしている。
けれど、それでもファナは歩く。
今度は、自分の意志で、まっすぐに。




