第三十七章︰—市場のざわめき、そして小さな願い—
朝日が小高い丘を照らし、風に揺れる草原の先に、城壁に囲まれた町が見えてきた。
「……わぁ……あれが町?」
初めて目にする“市場のある町”に、ファナの金の瞳が大きく見開かれた。
宿場村とは比べ物にならない規模の門があり、商人の荷馬車が列をなしている。
人々の声、獣の鳴き声、どこからか漂うスパイスの香り——すべてが、彼女には未知の世界だった。
「物資の補充をするだけだ。半日もいねぇ」
そう言いながらも、カイルは門の前で一度立ち止まる。
「……この町、前にも来たことある?」
ファナが問いかけると、彼は一瞬、眉をひそめた。
「昔な。あんまり……いい思い出はねぇ」
それだけ言って、話を切るように先を歩いていった。
町に入ると、まるで別世界だった。
露店がずらりと並び、人々のやりとりが飛び交い、路上には楽師たちが笛や太鼓で賑わいを添えていた。
ファナは目を輝かせながら、レリアと手をつないで歩く。
「この薬草……ラゼンの森でも見たことある! でも、こんな風に干すのは知らなかった……!」
「市場って、いろんな人の工夫が詰まってるのよ。きっとあなたにも役立つことがあるわ」
途中、ファナはふと目に留まった小さな屋台に引き寄せられた。
そこでは、細い糸で編まれた手作りのブレスレットが並べられていた。どれも不揃いで、どこか素朴な温もりを感じる。
「これ、誰が作ったの?」
「娘さ。体が弱くてね……店には出られないけど、手だけは器用でな。一本一本、祈りを込めて編んでるんだ」
そう言ったのは、初老の男性。
ファナは、そっと一つの紺色のブレスレットを指差した。
「……この、星みたいな模様のやつ……もらってもいい?」
「もちろんさ。……よければ、願い事を込めてからつけるといい。あの子の編み物は、そういうもんなんだ」
ファナは目を伏せて、小さく呟いた。
「……“みんなが笑っていられますように”」
その願いが糸に染み込んだように感じた。
昼を過ぎ、広場で水を買いに並んでいたときだった。
「この子が、うちのパンを盗ったんです!」
叫び声に振り向くと、小さな男の子が店主に腕を掴まれていた。怯えた目をしたその子は、震えながら否定もできずにいた。
ファナの心に、かつての自分の姿がよぎる。
——誰かに誤解され、言葉も出せず、ただ怯えていたあの頃。
「待って……っ! その子、そんなことしてない!」
思わず叫んで駆け寄った。
驚いたカイルとレリアがあとから追いつく。
「……おい、どうした」
「カイルおにーさん……この子、何もしてないの。わたし、見てた。パンに手、伸ばしてすらなかった……!」
カイルは、少しだけ目を細め、子供の袖をまくった。
その手には硬貨が握られていた。小さな、小さな銅貨。
「パン……買おうとしただけ……でも、怖くて……」
店主は気まずそうに頭を下げた。
「……すまなかった。てっきり盗ろうとしたのかと……」
レリアが子供の頭を撫で、優しく言う。
「誤解が解けてよかったわ。怖かったわね。でも、ちゃんと謝れるあなたは偉いわよ」
ファナは膝をつき、その子と目線を合わせた。
「……こわくても、逃げないでいてくれて、ありがと」
その言葉は、昔の自分に向けたようでもあった。
その日の夕暮れ、町を離れて森のはずれで野営することになった。
焚き火の火がゆらゆらと揺れ、虫の声が響く中、ファナは手首に巻いた紺色のブレスレットを見つめていた。
「……わたし、ちょっとずつ……変わってるのかな」
ぽつりと漏らした言葉に、レリアが柔らかく応じた。
「ええ。けどね、焦らなくていいのよ。変わるって、時間がかかることだもの」
「……でも今日、あの子を助けようって思えたの、わたし……初めてだった」
そのとき、カイルが火の向こうからぼそりと呟いた。
「変わってねぇよ。もともと、そうだったんだろ」
ファナは、焚き火越しに彼を見た。
まるでそれ以上は語らないというように、彼は干し肉をかじって空を見上げている。
「……おにーさん、昔ここで何かあったの?」
「……ああ。少しな。俺も……昔、信じられるもんが何もなくてよ」
「……今は?」
「……“今は”を考えるようになった。そういう仲間ができたから、だ」
そう言って、彼は火をくべた。
その音は、ぽん、と静かに夜空に跳ねた。
ブレスレットを握る手に、少しだけ力を込める。
ファナはもう一度、願う。
「……みんなが笑っていられますように。わたしも……その中にいられますように」
火があたたかく、彼女のほおを照らした。
旅はまだ続く。
けれど今日の夜、ファナの心には確かな希望の灯が宿っていた。




