第三章:裂ける森
ラゼンの森の夜明けは、いつも薄い霧とともに訪れる。
朝露の滴る葉の匂い、鳥たちの囁き、風の中に混じる小さな命の息吹。それらすべてが、ファナにとっては“帰る場所”の音だった。
けれど今朝は、そのすべてが僅かに歪んでいた。
霧はやけに濃く、朝鳥たちの声も少なかった。
森に住む者たちは、その違和感を言葉にはせず、ただ静かに顔を見合わせていた。
「……北西の境界に、新たな切り開きがあった。誰かが木を倒して道を作っている」
長老エルの言葉に、集まった村の者たちがどよめく。
「人の手か?」
「獣ではない。斧跡があった。しかも、鋼で削った跡だ」
村の空気が一層固くなる。ファナは黙って火の前に座っていたが、その言葉に目を伏せた。
帝国が近づいている。確信に近い感覚が胸を締めつけた。
ラゼンの森は、外界との接点を極力避けてきた。
人族の国家とも距離を取り、交易もほとんど行っていない。
だからこそ、静かに、自然とともに生きてこられたのだ。
だが、それが終わるかもしれない。帝国が本気でこの森に目を向けてきたなら、隠れ続けることは不可能だ。
「私たちは……どうするの?」
若い者が声をあげた。
「戦うべきか、それとも……逃げるか」
エルは静かに首を横に振った。
「まだ決断の時ではない。だが準備は必要だ。……偵察隊を送る。状況を知り、根拠のある判断をしなければならぬ」
ファナは、心がざわめくのを感じた。自分が、偵察に加わるべきだ。そう思っていた。
その夜、彼女は一人で森の北西部へと向かった。
正式な命令はまだ出ていなかったが、じっと待つことなどできなかった。
月明かりの下、葉を踏む音さえ慎重に、ファナは茂みを抜ける。そして、見た。
——森が裂かれている。
斧で削られ、均された細い道が森の奥へと続いていた。その先には、確かに“人の気配”があった。火の匂い、獣ではない足跡、鉄と革の混じった香り。
ファナは木陰に身をひそめ、じっと観察を続けた。
しばらくして、複数の人影が現れる。装備は統一され、胸には黒金の紋章。ガルミア帝国の偵察兵——間違いなかった。
「……っ」
思わず息を呑む。
兵士たちは何かを確認し、森の地図のようなものに書き込んでいた。
そして、一人が小さな石板を取り出して呟くと、それが淡く発光する。魔導通信装置——軍の指揮官に直接報告を送る道具。
(これ以上、侵入が進めば……森は戦場になる)
ファナはその場を離れ、村に戻る決意を固めた。
帰路、心が激しく揺れていた。この森の静けさが壊れる予感。大切なものが奪われる恐れ。そして、自分に何ができるのかという問い。
その答えは、まだ出なかった。
だが、心の奥ではもう分かっていたのかもしれない。森を守るためには、自分の穏やかな日常を手放さなければならないと——
風が再び吹き始めた。 それは変化の風。決意の始まりだった。




