第三十六章︰—朝の風と、別れの声—
朝霧がうっすらと立ちこめる村の通りを、小さな足音が駆け抜けてゆく。
まだ村の鐘も鳴らぬ早朝、子供たちの笑い声が宿の前まで響いていた。
「ファナちゃーん! 起きてるー!?」
寝ぼけ眼をこすりながら窓を開けたファナは、すでに広場で待っている子供たちを見て目をぱちくりさせた。
「……え、もう朝……?」
隣の布団では、カイルおにーさんが腕を枕に寝返りを打ち、レリアおねーさんはまだすやすやと寝息を立てていた。
ファナはそっと布団を抜け出し、毛布を直すと身支度を整える。
昨夜は、ひとりで眠るのが怖かった。だから三人で同じ部屋に泊まることになったのだ。
けれど、今朝の彼女の胸は穏やかだった。
——ほんとに、変わったのかもしれない。少しだけ。
扉を開けて外に出ると、いつもの子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
「ファナちゃん、おはよー!」
「ねぇねぇ、今日は何して遊ぶー!?」
「昨日のつづきやろうよ! オオカミごっこ!」
ファナは笑って頷いた。
「うん。でもね、今日はお別れの日なの。だから……思いっきり遊ぼ?」
「ええー!? もう行っちゃうの……?」
「……うん、ごめん。でも、最後まで一緒にいてくれる?」
泣き出しそうな顔の子もいたけど、みんな小さく頷いた。
それを見て、ファナは心からの笑みを浮かべる。ほんの数日前までは考えられなかった感情だ。
その頃、宿の部屋ではレリアが伸びをしながら目を覚ました。
「……ふあぁ……あら、ファナちゃん、もう外かしら?」
「外にいるぞ。ガキどもが騒いでる。……耳、持ってかれた」
カイルは寝癖だらけの頭をかきながら、窓からちらりと外を見た。
子供たちの笑顔に囲まれているファナを見て、ほんの少しだけ目を細める。
「……あいつ、強くなったな」
「ええ。本当に。……この村で、少しは“幸せ”を感じられたのかもしれないわね」
「名残惜しいだろうな」
レリアは微笑みながら頷くと、荷物の準備に取りかかる。
「今日の支度は私たちで全部やっておくわ。ファナちゃんには、最後の時間を大切にしてもらいたいもの」
「同感だ。……あいつが戻る頃には、全部整えておいてやろう」
「いっけー! ファナちゃんのしっぽアターック!」
「うひゃっ!? ちょっ、やめ、くすぐったいってばー!」
広場には、走り回る足音と笑い声が満ちていた。
子供たちに囲まれながら、ファナは心から笑っていた。誰かとこんなふうに遊んだのは、ラゼンの森の仲間たちと過ごしていた日々以来かもしれない。
でも、あのときと違うのは——
いま、自分が人間たちと一緒に笑っているということ。
「ファナちゃん、行っちゃうのやだよー……」
小さな女の子が、ぽつりとつぶやいた。
「わたしも……。もっと一緒に遊びたかった……」
ファナはしゃがみ込んで、その子の頭をそっと撫でる。
「……ありがと。わたしも、すごく楽しかったよ。みんなのこと、きっと忘れない」
そう言って、子供たちを一人ひとり、ぎゅっと抱きしめた。
別れの風が吹き抜ける。けれどその風は、優しく背中を押すものだった。
宿へ戻ると、カイルとレリアが荷物を背負って準備万端の姿で待っていた。
「おかえり、ファナちゃん。たくさん遊べた?」
「うんっ! ……でも、ちょっとさみしい」
レリアがふわりと抱き寄せ、髪を撫でてくれる。
「寂しいのは、それだけ大切な思い出ができた証よ」
カイルも肩に手を置いて、言った。
「忘れるな。思い出は、道しるべになる」
「……うん」
三人は門の前まで進み、村の人々に見送られながら歩き出す。
ファナは、何度も何度も振り返りながら手を振り続けた。
そして最後の角を曲がったとき、涙をこらえきれず、ぽろりとこぼれた。
「……また、会いたいな……」
「いつか、きっとね」
レリアが優しく微笑み、カイルは無言でそっと彼女の頭を撫でた。
それは言葉よりも温かくて、ファナの胸に小さな希望の灯をともした。
道は続いてゆく。
行き先も、まだ見ぬ未来も、きっと優しさだけではできていない。
けれど。
——少しずつでも、歩いていける。
——大切なものを、守れるように。
ファナの足取りは、確かだった。
彼女の中にはもう、「逃げるだけの自分」はいなかったから。




