第三十二章:峠道の影
山道の斜面に差し掛かる頃、陽は西に傾き、長い影が足元を伸ばしていた。
峠の宿まで、あと数刻といったところだ。
三人は無言のまま歩いていた。だが沈黙は心地よいものだった。
時折、レリアが草花を指して話題を振り、ファナがそれに返す。
カイルはその後ろから、油断なく周囲に視線を巡らせていた。
ファナの耳が、ふとピクリと動いた。
「……っ」
足を止め、草むらに視線を向ける。耳が小さく揺れ、風の音とは違う微かなざわめきを拾っていた。
「足音……何人か、近くにいる……」
レリアとカイルもすぐに動きを止め、息を潜める。
「方向は?」
とカイルが低く問う。
「……前方、道の脇の森の中。四人……いや、五人……足音は重いけど、動きが静か……多分、武装してる……」
カイルは剣の柄にそっと手をかけながら、険しい表情を浮かべた。
「帝国の追手がこんな早く追いつけるわけがねぇが……別の連中かもしれん」
「盗賊……? それとも、別の傭兵団?」
レリアが囁く。
「どちらにせよ、こちらを待ち伏せしてるような配置だ。……抜け道があるなら、今のうちに避けたいところだが……」
「……あそこ」
ファナが指差した先、道の脇から森に分け入る細い獣道のようなものが見えた。
「あの道なら、回り込めるかも……」
カイルは一瞬考えた後、頷いた。
「行くぞ。レリア、ファナの後ろを頼む。音を立てずに、慎重にな」
三人は素早く、だが慎重に森の小道へと身を隠すように移動した。
葉の擦れる音も最小限に抑え、息を潜めて進む。
獣道は細く曲がりくねっていたが、草の茂みが視界を遮る分、こちらの姿は見つかりにくい。
少し登った先の岩場で、ようやく一度足を止められる空間があった。
「……振り切れたか」
カイルが小声で呟く。
だが、その言葉が終わるより早く、岩の陰から声が飛んできた。
「おやおや……ここまで逃げ込まれるとは。なかなか鋭い耳をお持ちで」
現れたのは、仮面をかぶった黒衣の男だった。その背後には、三人の男たち。
いずれも無表情で、無言のまま得物を構えている。
「……何者だ」
カイルが即座に問う。
仮面の男は芝居がかった口調で答えた。
「私どもは“観察者”。任務はただ一つ。
『対象の生死確認と回収』。
貴女がその対象――ファナ・ラムゼリア、ですね?」
ファナは全身が凍りつくような感覚に包まれた。名前を、知っている。
「……帝国の、兵……?」
「兵ではありませんよ。あくまで“民間協力機関”という扱いで……しかし、雇い主は同じです」
仮面の男が一歩踏み出した瞬間、カイルが剣を抜いた。
その刹那、背後の男たちが一斉に動く。
「レリア、ファナを守れ!」
「了解っ!」
カイルは瞬時に敵の一人を牽制しながら間合いを取り、二人の前に立った。
レリアはファナの腕を引き、後方の木の陰に身を寄せる。
仮面の男は一歩も動かず、戦いを静かに見守っていた。
「ファナさん……貴女は特別な存在だ。『森の記憶』とは、実に貴重な価値を持つ。どうか、無駄に抗わないでいただきたい」
「……嫌……っ」
ファナが震えながら首を振る。
「もう、誰にも連れて行かれたくない……っ」
レリアがその肩をぎゅっと抱いた。
「大丈夫、絶対に守るわ」
戦いは始まったばかりだったが、三人の決意はすでに固まっていた。
ファナの耳は、再び敵の足音を拾っていた。だが、今はもう怯えるばかりではない。
(逃げるんじゃない。今度は、向き合うんだ……!)
風が木々を揺らし、次なる衝突の前触れとして森の奥を震わせた。
そしてその中で、ファナは初めて、自らの意思で地面を強く踏みしめた。




