第二章:帝国の影、風のない夜
夜の帳がラゼンの森を包む頃、その静寂はあまりにも不自然だった。
風は止み、葉擦れの音すら聞こえない。動物たちは声を潜め、地面はひんやりとした沈黙を伝えていた。
ファナ・ラムゼリアは、森の高台にある見張り岩に座って、遠くの地平線をじっと見つめていた。
月明かりに照らされた彼女の猫耳が微かに震える。何かが近づいている。それは本能だった。
幼い頃から育ったこの森の空気が、今日に限って、あまりにも重く澱んでいる。
「……この感じ、あの時と同じ……」
ファナの脳裏に、数年前の記憶が蘇る。
燃え盛る木々、倒れた仲間、容赦のない鋼の槍と、あの男の冷たい目——
ガルミア帝国の侵攻。
それは過去の話ではない。いままた、同じ気配が辺りに漂い始めている。
彼女はそっと立ち上がると、足音を殺しながら集落へ戻った。
木々の間を縫うように建てられた家々には、まだ暖かな灯がともっている。けれどその中に流れる空気は、どこかぎこちない。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
弟のリッカが、小さな木の器を手にして声をかけてきた。
「……なんでもないよ。風が冷たかったから、ちょっと見張り岩に行ってただけ」
「ふーん……でも、気をつけて。最近、森の西のほうで見知らぬ足跡が見つかったんだって。エル長老が言ってた」
ファナは思わず息を呑んだ。
「それ、本当?」
リッカはうなずいた。
「うん。でも、まだ“獣じゃないか”って話もあるし、本格的な警戒にはなってないって」
ファナはうなずきながらも、胸の内に広がる不安を拭えなかった。
森に近づく者がいる。しかも、それが獣人でも旅人でもないとしたら——
それは明らかに、“外”の世界から来た者。
集落の中心、焚火のそばでは、長老エルを囲んで村の年長者たちが静かに語らっていた。
ファナはその輪には加わらず、遠巻きにその姿を見ていた。エルの眉間には深い皺が刻まれ、焚火の明かりがその横顔を憂いに染めていた。
「……“風”が、変わるかもしれんな」
誰かがぽつりとそう呟いた。
誰もが、その意味を知っていた。
風——それは、ラゼンの森に生きる者たちにとって、世界との調和を示すしるし。
風が止む時、それは変化、そしてしばしば“侵略”の前触れであった。
その夜、ファナは眠れなかった。窓から見える星の瞬きが、どこか遠くへと誘うようだった。
彼女はまだ知らない。
この夜を境に、彼女の暮らしてきた森が、家族が、そして自身の運命が、大きく動き出すことを。




