第二十章:ありがとう
焚き火が燃え尽きかけた頃、森は再び静寂を取り戻していた。
先ほどまで繰り広げられていた異形の魔物との死闘が嘘のように、空気は穏やかで澄んでいた。
カイルはまだ息を整えながら、鋭い目で森の奥を見つめている。
その背中には、いくつもの戦いを潜り抜けた男特有の張り詰めた緊張感が残っていた。
レリアは薬草を取り出し、擦り傷を負ったファナの腕にそっと塗り込んでいた。
ファナは静かに座り込みながら、小刻みに震えている。
身体の震えは戦いの恐怖によるものだけではなく、自分のために戦ってくれた二人への感情が入り混じったものだった。
「……カイル、レリア……」
その小さな声に、二人は同時に顔を向けた。
「ありがとう……」
言葉は震えていて、途切れ途切れだった。
けれども、その言葉には明らかな重みがあり、心からの感謝が込められていた。
レリアとカイルは思わず互いを見つめ合った。
二人の目には、驚きとともに静かな喜びが浮かんでいる。
ファナが自分から言葉を発したことはほとんどなかった。
それどころか、二人の名前を呼ぶことさえ稀で、いつもは問いかけに頷くか、小さな返事を返す程度だった。
レリアは目を細めて微笑んだ。
「ファナ……あなた、初めて……」
ファナはうつむき、震える手を握りしめながら小さく頷いた。
「ごめん……いつも、怖くて……ずっと話せなくて」
カイルは静かにため息をついた後、穏やかな口調で応じた。
「謝る必要はねぇよ。俺たちは好きでお前と旅をしている。それに……言葉が出ないのは、お前が背負ったものが重すぎるからだろう。気にするな」
ファナはその言葉を聞き、涙がぽたりと膝に落ちるのを感じた。
「ずっと……逃げてきた。でも……逃げても逃げても、あの森の火が消えないの……」
レリアはそっとファナの肩に手を置き、ゆっくりと背中をさすった。
「逃げてるんじゃない。あなたは生きようとしているの。それだけで十分よ。私たちは、その助けになりたいだけだから」
カイルはゆっくりと剣を鞘に戻し、焚き火に薪を一本足した。
「ファナ……いつか、その背負ったものが少し軽くなる日が来る。その日までは、俺たちが一緒に背負ってやるから」
その言葉に、ファナは目を見開いた。
彼らの優しさが、まるで初めて触れた日の光のように温かくて、それでもどこか痛かった。
胸が締めつけられ、涙が止まらない。
「ありがとう……ほんとに、ありがとう……」
何度も繰り返し、小さく呟く。今はそれ以外の言葉が見つからない。
「ファナ、泣いてもいいのよ。我慢しなくていい」
レリアの穏やかな声が、胸に染み渡っていく。
その夜、焚き火のそばで、三人は静かに座っていた。
ファナはようやく自分の心の扉をほんの少しだけ開き、二人の存在が自分を守ってくれているのだと実感し始めていた。
夜が更け、再び沈黙が訪れたとき、ファナはそっと目を閉じた。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
レリアは小さく微笑みながら、その寝顔を眺めていた。
「やっと……少しずつだけど、自分の気持ちを言えるようになったわね」
カイルは小さく頷いた。
「ああ。それだけでも大きな前進だ。まだ道は長いだろうが、俺たちが一緒なら、何とかなるだろう」
森の静寂の中、二人の心に小さな希望の灯りがともっていた。
闇はまだ深く、これからも困難は続くだろう。
けれども、今はただ、ファナが自らの意思で二人を呼んだことが、二人にとっては何よりの喜びだった。
焚き火の光は、三人を静かに、穏やかに照らし続けていた。




