第一章:静謐の森、ラゼン
ラゼンの森は、まるで世界のどこからも切り離されたように静かだった。
高くそびえる古樹たちが、天を目指して枝葉を広げ、木漏れ日が金色の粒となって地面に落ちる。
小鳥のさえずり、川のせせらぎ、風に揺れる葉の音—
そこには、人の世の喧騒とは無縁の、穏やかで確かな営みがあった。
ファナ・ラムゼリアは、その静かな森の奥、獣人たちの集落に暮らしていた。
彼女の髪は淡い銀色で、陽光を浴びるとかすかに輝く。
その頭には猫の耳、腰にはしなやかな尻尾。年齢は十八。
森の中では若者とされるが、狩りも薬草の知識も確かで、仲間たちから一目置かれていた。
「お母さん、これ、トリカブトじゃないよね?」
そう声をかけながら、ファナは籠の中の草を差し出した。
台所に立つ母はそれを手に取り、優しく笑う。
「大丈夫、これは似てるけど違う草よ。見分け方、ちゃんと覚えてるのね。」
頷きながら、ファナは心の奥でほんの少し誇らしげな気持ちになる。
父は狩りに出ており、弟は村の外れで木工細工を学んでいた。
エルという長老のもとで薬草を学ぶ時間は、彼女にとって特別なひとときだった。
森の中で育った者にとって、外の世界は“遠くて危ない”ものだった。
けれど、ファナはそれをただの恐怖とは思っていなかった。
森の外には、違う暮らし、違う人々、違う風がある。
そう考えることが、彼女にとって小さな夢だった。
ある日、ファナは森の奥で傷ついた小鳥を見つけた。
翼に傷を負い、地面でもがいていたその小さな命に、彼女はそっと手を差し伸べる。
「怖くないよ……ちょっとだけ、がんばって」
やさしく包み込むようにして、小鳥を抱き上げたその手は、震えていなかった。
手当てを終えた小鳥が森へと飛び立った瞬間、ファナの胸には、ひとつの確信が芽生えていた。
「外の世界も、こんな風に誰かを癒せたらいいな……」
その想いはまだ言葉にならない。
けれど、ラゼンの森に生きる彼女のなかに、確かに灯った最初の“願い”だった。
その日、ファナは森の小道を歩きながら、空を見上げた。
青く澄みきった空の彼方に、どんな世界が広がっているのだろうと夢想する。
だが、その穏やかな日々は、あまりにも突然に終わりを迎える。
風が止む夜が来る。空気が重たく、どこか焦げ臭い。
それは嵐の前触れ。
だれもが知らず知らずのうちに胸を締めつけられ、言葉にできぬ不安を感じていた。
ファナはまだ知らない。
その夜が、この森にとって最後の“静けさ”となることを。
そして、彼女自身の人生が、大きく音を立てて崩れ始めることを。




