第十六章:焚き火の問い
夜はすっかり更け、星が森の天蓋を縫うようにきらめいていた。
村から小道を外れた崖の上、三人と一人が焚き火を囲んでいた。
火はゆっくりと燃え、赤い光が彼らの影を揺らしている。
ファナは焚き火越しに座るエリオットをじっと見つめていた。
灰色のマント、鋭い目元、狼に近い輪郭を持つ耳と尾。
獣人でありながら、どこか人の世界の理をよく知っているような佇まい。
「……どうして、私に近づいたの?」
ファナが口を開いた。
その声には震えも、怒気もなかった。
ただ、知りたいという気持ちがあった。
エリオットはすぐに答えず、焚き火の中に落ちる薪の音をしばし見つめていた。
「……君のことは、何も知らなかった。ただ、見た瞬間に分かったんだ」
彼は言葉を選ぶように、慎重に語った。
「“この子も、世界の裏側を知っている”ってね」
「裏側……?」
「表の世界では、獣人はただの“異種”だ。異物として排斥されるだけだ。でも、帝国がそれを狙うのは、ただの偏見じゃない。……“力”があるからだ」
カイルが腕を組んで唸ったように言う。
「……お前、あの石碑の話を知ってるな?」
「“ラゼンの封印”か」
エリオットは、はっきりとその名を言った。
レリアの表情がこわばる。
「やっぱり……あなたは、帝国の研究機関に?」
「いや、違う。だが俺は……一度、帝国の“鍵”にされかけた側の者だ」
焚き火の炎が、かすかに高くなった。
ファナは身じろぎもせず、エリオットの目を見つめた。
「君も、“選ばれた”んだろう? ……生き延びてしまった、あの夜」
ファナは喉が詰まるのを感じた。
“あの夜”という言葉に、胸の奥の傷がずきりと疼いた。
「……私は、ただ……全部失って……逃げただけ……」
「それでも、生きている。その事実こそが、帝国にとっては“想定外”なんだよ」
エリオットは手を火にかざしながら、静かに語り続ける。
「俺の目的は、君を連れ帰ることでも、利用することでもない。
……ただ、“知っておいて欲しい”と思った。自分が追われている理由を、自分の中の“何か”を」
「何か……?」
「君の中に眠る記憶と血。……帝国が恐れているのは、それが目覚めることだ。
君が、“誰かの道具”ではなく、“自分の意思で歩き出す”ことなんだ」
ファナは言葉を失っていた。
焚き火の炎が、パチ、と小さく跳ねる。
レリアがファナの肩にそっと手を置いた。
「……あなたは、どうしたいの?」
その問いに、ファナは答えなかった。
けれど、焚き火に映る彼女の瞳は、確かに何かを見つけようとしていた。
炎の奥に、自分の過去でも未来でもない、いまこの瞬間の“選択”を。
焚き火は静かに揺れ、草木の間を風がすり抜ける。
誰もが口を閉ざしたまま、ファナの返答を待っていた。
エリオットの問いは簡潔だった。
「君は、どうしたい?」
それは、命をどう使うか、どこへ向かうかという、重すぎる問いだった。
ファナは、うつむいたまま、何も言えずにいた。
唇を開こうとしても、言葉にならない。
手のひらには、まだあの戦いの震えが残っていた。
耳の奥には、あの夜の炎の音がこびりついていた。
心は、まだ“失ったもの”の重みに潰されかけていた。
だけど。
それでも。
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「……まだ、わからない……」
その声は小さく、消え入りそうで。
けれど、そこには確かな想いが宿っていた。
「……ただ……生きたい。……今は、それだけ」
エリオットは、何も言わなかった。
だが、微かに目を細め、焚き火を見つめるその横顔には、どこか安堵の色が滲んでいた。
「……それで、いいと思う」
レリアの声もまた、静かだった。
「生きることから、すべてが始まるの。心がついてくるのは……そのずっと、後でいい」
ファナは小さく頷いた。
カイルはその様子を見ながら、ただ一言。
「選ばないってのも、立派な選択だ。無理に答えるな」
焚き火の灯りが、ふと一段高くなって火花を上げた。
ファナの銀の髪が、その光に照らされて揺れた。
“ただ、生きたい。”
その想いは、かすかでも確かな灯火となって、彼女の胸の奥にともっていた。
焚き火の灯が静かに揺れる中、ファナの言葉が消えた空気を、しばし誰も壊さなかった。
「……まだ、わからない。……ただ……生きたい。今は、それだけ」
彼女の震える声は、風にさらわれるようにして宙に溶けていった。
その沈黙の中で、エリオットはじっとファナを見つめていた。
鋭さを内に秘めた金の瞳が、焚き火に照らされてわずかに光る。
ファナは視線を合わせられず、膝を抱えたまま目を伏せた。
その姿は、まるで子狐のようにか細く、震えていた。
やがて、エリオットが小さく呟いた。
「……そうか」
その声に、誰の問いも詰問もなかった。
それは、受け入れる者の声だった。
彼はゆっくりと立ち上がった。
マントの裾が音もなく揺れ、背中に影が落ちる。
「……まだ早いかもしれないな。俺が言葉をかけるには、君の心は……まだ、戦いの途中だ」
その言葉には、諦めでも軽蔑でもない、ただ静かな理解と距離があった。
カイルが目だけで彼を見送り、レリアは何も言わず俯いた。
焚き火の光から一歩退いたエリオットは、夜の森の方角をちらりと見やったあと、静かに言った。
「……けど、またどこかで会うことがあるだろう。君が、自分で歩く日が来たら」
ファナは顔を上げた。
その目には、怯えと、わずかな名残惜しさが混じっていた。
だが、言葉は出なかった。
エリオットはそれを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「夜の風は冷える。風邪をひくなよ、ファナ・ラムゼリア」
そう言い残すと、彼は森の闇の中へ、音もなく姿を消した。
焚き火が静かに揺れ、ファナの胸に、言いようのない余韻が残された。
まるで遠くで鐘が鳴ったような、不思議な後味とともに。




