第九章:──名を名乗る夜
山道の空は、いつのまにか秋の色を帯びていた。
冷え込む夜には霧が谷を覆い、焚き火の温もりが恋しくなる季節。
その日もファナたちは、岩陰に身を寄せて小さな火を囲んでいた。
パチ、パチ、と薪の弾ける音だけが静寂の中にあった。
レリアが用意した野草と干し肉のスープは、香ばしく、ほんの少しだけ塩辛い。
カイルが無言でそれを口に運ぶ姿を、ファナはちらりと横目で盗み見た。
彼の背には風に晒された古びた剣。そして無骨なマントの下には、いくつもの古傷が刻まれている。だがその手は、今夜も誰を脅かすことはなかった。
ファナは、恐る恐るスープを口に運ぶ。
喉が詰まるような感覚は薄れ、温かさが胸の奥までしみわたった。
「……今日は、よく食べられてるね」
レリアが微笑んだ。
その穏やかさに、ファナは少し目を伏せて答える。
「……うん。あんまり……冷たくないから」
「冷たくない?」
「……その……風も。人も」
レリアの表情が少しだけ和らいだ。
「そう。私たちは、冷たくならないようにしてるんだよ」
ファナは何も言えなかった。口の中に残る塩味を噛みしめるようにして、視線を焚き火に落とした。
カイルはいつものように何も言わず、ただ火を見つめている。
数日が経った。
三人の距離は少しずつ縮まり、言葉を交わすことも増えてきた。
レリアは薬草の知識を教えてくれ、カイルは短剣の握り方を教えてくれた。
だが、ファナは自分のことを話そうとすると、喉が詰まって言葉が出なかった。
ある夜、星がくっきりと見えるほど晴れた夜だった。
レリアが薪をくべ終えると、ふとファナの横に腰を下ろした。
「ねえ、そろそろ……あなたの名前を、聞いてもいい?」
その声は、とてもやさしかった。
ファナは肩をすくめ、視線を下げた。
「……言っても……いいの?」
「もちろん」
少しだけ間が空く。
そして、ファナはほんの小さな声で、震える唇を動かした。
「……ファナ。ファナ・ラムゼリア」
夜の森が静かになったような気がした。
「ラゼンの……生き残り」
その言葉を言い終えると、胸の奥から熱いものがせり上がってきた。
声にならない嗚咽が、喉の奥で膨れあがる。
レリアは静かに、その肩に手を置いた。涙ぐみながら、でも決して言葉では踏み込まなかった。
ただ、「ありがとう」とだけ囁いた。
その隣で、カイルは少しだけ目を細めて言った。
「……名を名乗れるのは、前に進もうとしてる証拠だ」
それは、ファナが思っていた以上に、重い言葉だった。
彼は火にくべた枝をゆっくりと突きながら、呟く。
「名も持たず、顔も持たず、過去を喰って生きてるヤツも多い。……けど、お前は違う」
ファナは驚いて、そっと彼の横顔を見た。
カイルの目はまっすぐ焚き火を見ていた。でもその奥には、過去を背負う者だけが持つ静けさがあった。
「名を失くすってことは、世界から消えることだ。だから……その名を、大事にしろ」
それは、彼なりのやさしさだった。
ファナはうなずくこともできず、ただ焚き火の中に、またひとつ涙を落とした。
その夜、ファナは初めて自分から話した。
故郷の森のこと。弟のこと。燃えさかる炎と、父と母の叫び。そして――長老・エルの最期の言葉。
レリアは、ただ黙って聴いていた。
カイルは、何も言わなかった。
でもその沈黙が、ファナを受け止めてくれていた。
いつのまにか、夜が明けかけていた。
焚き火の残り火が赤くくすぶる中で、ファナは小さく、深く、息をついた。
「……ありがとう。話せて、少し……楽になった」
レリアが微笑み、カイルが静かに立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行くか。追手に追いつかれたら目も当てられねえ」
ファナは立ち上がり、マントのフードをかぶる。
夜明け前の風が、三人の間を通り抜けた。
まだ全てを受け入れたわけじゃない。
でも、ほんの少しだけ――信じてもいい気がした。
自分の名と、共に歩くこの道を。




