秋のそよ風と花火の記憶
九月の屋敷の庭は、夏の熱気をそっと手放し、秋の柔らかな光に包まれていた。ひまわりは静かに頭を垂れ、朝顔は涼やかな花を閉じ、代わりに庭の片隅では秋桜がピンクや白の花弁を風に揺らしていた。敷石の小径は、落ちた葉がひらりと舞い、まるで秋の物語が庭に新しいページを刻んでいるようだった。遠くの白壁の屋敷は、穏やかな陽光に照らされて静かに佇み、木々の間を抜ける風は、夏の名残を残しながらも、秋の清涼さを運んでいた。
早希は庭のベンチの脇で、秋桜の周りに小さなスコップで土を整えていた。一九歳の彼女は、この屋敷で住み込みのメイドとして働く。黒と白のメイド服に、秋らしい薄いベージュのエプロンを重ね、長い栗色の髪をゆるく三つ編みにしていた。朝から屋敷の掃除を終え、庭の手入れに取り掛かっていたが、九月の陽射しは柔らかく、頬を撫でる風が心地よい。早希は庭仕事が好きだった。秋桜の可憐な姿や、木々の間で囁く風の音が、心に穏やかな安らぎを与えてくれる。
「秋桜、こんなに早く咲くなんて…秋、来たなぁ…」
早希はスコップを置き、秋桜の花を見上げた。ピンクの花びらが風に揺れ、まるで小さな蝶が舞っているようだった。彼女は目を細め、庭の奥に広がる木々の色づき始めた葉を眺めた。庭は、早希にとって心のオアシスだった。屋敷の静かな部屋も悪くないが、庭には季節の息吹があり、花や木々がそっと心に寄り添ってくれる。
そんな穏やかな時間を過ごしていると、正門のあたりで小さな人影がチラリと見えた。早希はスコップを花壇の脇に置き、そっと目を凝らす。門の外に立っていたのは、詩織だった。気弱で純粋な中学生の女の子。今日は学校帰りらしく、セーラー服姿で、黒いミディアムヘアが秋の風に軽く揺れている。大きな瞳は弾むような光を宿し、手には小さなタブレットと紙袋を抱えていた。
早希は軽い足取りで正門に向かい、いつもの柔らかな笑顔で声をかけた。
「詩織ちゃん、こんにちは! 学校帰り? なんか、めっちゃ楽しそうな顔してるね!」
詩織はビクッと肩を震わせ、すぐに早希を見上げてパッと笑顔になった。頬がほんのり赤く、瞳には嬉しさと少しの照れが混じっていた。彼女はタブレットをぎゅっと握り、明るい声で答えた。
「う、うん! こんにちは、早希さん! あの…花火大会、めっちゃきれいだったから…話したくて…!」
早希は詩織の弾んだ様子にくすりと笑い、門の外まで出て、しゃがんで目線を合わせる。
「花火大会! いいね! めっちゃ楽しかったんだ? 庭のベンチでゆっくり話そうよ。秋桜、きれいだよ」
詩織はこくこくと頷き、早希の後ろについて庭の中へ入る。敷石の小径を歩く二人の足音が、秋の風に混じって小さく響いた。秋桜の花が道の両脇で静かに揺れ、木々の葉が陽光を浴びてキラキラと輝く。まるで庭全体が、詩織の小さな喜びを優しく迎え入れているようだった。
ベンチに腰を下ろすと、早希は詩織の紙袋に目をやった。
「それ、なに? また栞作ってきてくれた?」
詩織は少し照れながら紙袋を開け、中から小さな栞を取り出した。紙製の栞には、手描きの秋桜のイラストが可憐に描かれている。ピンクと白の花びらが、詩織の丁寧な手仕事を物語っていた。
「これ…その、早希さんに、と思って…。庭の秋桜、きれいだったから…描いてみたの…」
詩織は恥ずかしそうに栞を差し出し、早希はそれを手に取って目を細めた。秋桜のイラストは少し素朴だが、秋の柔らかな雰囲気が感じられた。
「わぁ、めっちゃ可愛い! 詩織ちゃん、ほんと絵上手だね。秋桜、庭のより優しい感じするよ」
早希の素直な称賛に、詩織の頬がさらに赤くなる。彼女はベンチの上で足を小さく揺らし、笑顔で答えた。
「ほ、ほんと…? ちょっと、色塗るの難しかったけど…早希さんが喜んでくれるなら、嬉しい…」
早希は栞を手に、大切そうに眺めた。
「これ、秋の宝物にするよ。詩織ちゃんの栞、なんか心がほっこりする感じ!」
その言葉に、詩織の瞳がキラリと光った。彼女は少し勇気を振り絞るように、タブレットを手に持ち、口を開いた。
「早希さん…あの、花火大会、ほんとすごかったの…! 花火、すっごくきれいで…タブレットで撮ったから、一緒に見てほしい…!」
詩織の声は、いつもより大きく、弾むような響きを持っていた。早希は目を丸くし、すぐに笑顔になる。
「え、動画撮ったの!? めっちゃ見たい! どんな花火だった? ぜんぶ教えて!」
詩織はタブレットを手に、そっと画面を操作した。画面には、夜空に広がる色とりどりの花火が映し出される。赤、青、黄色の光がパッと咲き、キラキラと散っていく。詩織は画面を見つめながら、目を輝かせて話し始めた。
「これ…友達と一緒に、川の近くで見てたの。最初、すっごくドキドキして…でも、花火が上がったら、なんか…全部忘れちゃうくらい、きれいで…!」
早希はタブレットの画面を覗き込み、花火の光に目を奪われた。
「うわ、めっちゃきれい! 詩織ちゃん、いい瞬間撮ったね! 友達とどんな感じだったの?」
詩織は少し照れながら、セーラー服の裾を軽く握った。
「うん…クラスの子たち、みんなで浴衣着て…。私、朝顔の柄の浴衣、着たの。みんなで屋台でお好み焼き食べたり…花火、上がるたびに、わぁって声出して…」
早希は詩織の話を聞きながら、彼女の純粋さに心を奪われる。
「めっちゃ楽しそう! 詩織ちゃんの浴衣姿、絶対可愛かっただろうな! 花火、どんなのが一番好きだった?」
詩織は少し考え込み、タブレットの画面を指差した。
「これ…金色の花火、キラキラして…なんか、星が降ってくるみたいだった…。見てると、詩が浮かんでくるの…」
「詩!? やっぱり詩織ちゃん、詩人だね! どんな詩、浮かんだの?」
早希の好奇心に満ちた声に、詩織は慌てたように手を振る。
「え、だ、だめ! 恥ずかしいよ…! ただ、花火が、夜空に物語を描いてるみたい、って思っただけ…」
「それ、めっちゃ素敵! 花火が物語描くなんて、詩織ちゃんの頭の中、絶対キラキラしてるね」
早希の明るい声に、詩織はくすくすと笑った。彼女はタブレットをそっと手に持ち、ベンチの上で体を揺らす。
「早希さんと一緒に見ると…なんか、花火、もっときれいに見える…」
早希は詩織の手をそっと握り、微笑んだ。
「ほんと? じゃあ、私も詩織ちゃんのおかげで、特別な花火見れたよ。ね、ほかにもどんなことあった? 夏休み、めっちゃ楽しかったんだよね?」
詩織は頷き、目を輝かせて話し続けた。
「うん…図書館、毎日行って…詩集とか、物語とか、たくさん読んだの。家族で森の旅館にも行ったし…夏、ほんと、楽しかった…!」
二人はタブレットを挟んで花火の動画を見ながら、笑い合った。秋のそよ風がベンチを包み、秋桜の花がそっと揺れる。まるでこの瞬間が、物語の輝くページのように、鮮やかに刻まれていく。
「それでね、早希さん! 九月の終わり頃、林間学校があるの…! ちょっと、楽しみなんだ…!」
詩織の声がさらに弾んだ。早希は目を丸くし、笑顔で答えた。
「林間学校! いいね! どんなことするの? めっちゃ楽しそう!」
詩織は少し照れながら、タブレットを膝に置き、話し始めた。
「うん…山に行って、キャンプファイヤーしたり、ハイキングしたり…。私、運動は苦手だけど…友達と一緒なら、なんか、楽しそうかなって…」
「めっちゃいいじゃん! 詩織ちゃん、体育祭も頑張ったんだから、林間学校も絶対楽しいよ! キャンプファイヤー、どんな感じか、想像しただけでワクワクする!」
早希の明るい声に、詩織はくすくすと笑った。彼女はベンチの上で足を揺らし、照れ隠しのように髪をいじる。
「早希さん…ほんと、話してると、なんか、ドキドキするけど、安心する…。林間学校、ちょっと怖いけど…楽しみになってきた…」
早希は詩織の手をそっと握り、微笑んだ。
「詩織ちゃんの林間学校、絶対キラキラした思い出になるよ。私、心の中で応援してるから! 帰ってきたら、ぜんぶ話してね!」
「うん! ぜったい、話すね…! 早希さん、ありがとう…!」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。秋の陽光がベンチを包み、秋桜の花がそっと揺れる。まるで庭全体が、二人の小さな喜びを祝福しているようだった。
その後も、二人は他愛もない話を続けた。詩織は花火大会での友達とのエピソードや、図書館で読んだ詩集の話を語り、早希は庭で見た秋の蝶や、屋敷で作ったカボチャのスープの話を笑いながら話した。詩織の純粋な笑顔と、早希の穏やかな声が、庭の秋の空気に溶け合う。
やがて、陽が西に傾き、空が茜色に染まり始めた。詩織は時計を見て、慌てたように立ち上がる。
「あ…もう、こんな時間…! お母さん、夕飯の準備してるから、帰らなきゃ…」
「そっか。じゃあ、また来てね。栞も、動画も、ほんと嬉しかったよ。林間学校の話、楽しみにしてるから!」
早希の言葉に、詩織はパッと笑顔になり、こくこくと頷いた。
「うん! 早希さん、ありがとう…! また、来るね…!」
詩織はタブレットと紙袋を手に、軽い足取りで正門へと向かう。早希はベンチから立ち上がり、彼女を見送った。小さな背中が遠ざかる中、秋の風が秋桜の花びらをひらりと舞わせる。詩織は振り返り、恥ずかしそうに手を振った。早希も笑顔で手を振り返す。
「詩織ちゃん、ほんと…キラキラしてるな」
早希は小さく呟き、ベンチに戻って栞を手に取った。秋桜のイラストをそっと撫で、目を細める。詩織の純粋さが、秋の花のように心に咲いていた。
一方、詩織は帰り道を歩きながら、ポケットの中の栞をそっと撫でた。早希の優しい声と、庭での穏やかな時間が、胸の奥でキラキラと輝いている。花火大会の思い出と、林間学校への期待が、彼女の心を軽やかにしていた。彼女は本の世界が大好きだったけれど、早希と過ごした時間は、どんな物語よりも鮮やかだった。
「早希さん…また、会いたいな…」
詩織は小さく呟き、頬を赤らめる。九月の夕暮れの風が、彼女の髪をそっと揺らし、新しい物語の続きを予感させた。
屋敷の庭は、今日も二人の時間を静かに見守っていた。秋桜の花が夕陽に輝き、木々の葉がそよぐ中、早希と詩織の小さな絆は、秋の光に照らされて、ゆっくりと花開いていくのだった。