初夏の風と体育祭の悩み
六月の屋敷の庭は、初夏の息吹に満ちていた。ツツジの花は散り、新緑の葉がより一層鮮やかに輝き、庭の片隅では紫陽花が青や紫の柔らかな花弁を開き始めていた。
敷石の小径は、朝露に濡れてきらりと光り、遠くの白壁の屋敷は、陽光に照らされて静かに佇む。
風は春の涼やかさを残しつつ、夏の暖かさをほのかに運び、木々の間で囁くようにそよぐ。
まるで庭全体が、新しい季節の物語をそっと紡いでいるようだった。
早希は庭のベンチに座り、小さな水差しを手に紫陽花に水をやっていた。
黒と白のメイド服に、初夏らしい薄い青のエプロンを重ね、長い栗色の髪をゆるくポニーテールにしていた。
朝の仕事が一段落し、庭の手入れをしながら一息つくのが、彼女のささやかな楽しみだった。
紫陽花の花びらに水滴が弾け、虹色の光を反射するのを見ながら、早希は小さく微笑んだ。
「紫陽花、今年は早めに咲いたな…」
彼女は水差しを置き、ベンチに腰を下ろして空を見上げた。
青空には白い雲がふわりと浮かび、初夏の風が頬を撫でる。庭は早希にとって、心のオアシスだった。
屋敷の静かな廊下も悪くないが、庭には季節の息吹があり、花や木々がそっと心に寄り添ってくれる。
そんな穏やかなひとときを過ごしていると、正門のあたりで小さな人影がチラリと見えた。
早希は立ち上がり、そっと目を凝らす。
門の外に立っていたのは、詩織だった。
数日前、クッキーを持ってきてくれたあの気弱な中学生の女の子、小柄で華奢な体にセーラー服、黒いミディアムヘアが風に揺れ、大きな瞳はどこか不安そうに庭を見つめている。
彼女の手には小さな紙袋があり、ぎゅっと胸に抱かれていた。
早希は軽い足取りで正門に向かい、いつもの柔らかな笑顔で声をかけた。
「詩織ちゃん、こんにちは! また来てくれたんだね」
詩織はビクッと肩を震わせ、慌てて早希を見上げる。頬がほんのり赤く、瞳には恥ずかしさと少しの緊張が混じっていた。
彼女は紙袋をぎゅっと握り、かすかな声で答えた。
「う、うん…こんにちは、早希さん…。あの、えっと…また、来ちゃった…」
早希は詩織の様子にくすりと笑い、門の外まで出て、しゃがんで目線を合わせる。
「来てくれて嬉しいよ。今日はどうしたの? またクッキー持ってきてくれた?」
彼女は軽く冗談を交えて尋ねたが、詩織の表情が少し曇っていることに気づいた。
詩織は紙袋を胸に抱いたまま、モジモジと視線を下げる。
「ううん…今日は、その…ちょっと、話したいことがあって…」
その声は、風に溶けそうなほど小さかった。早希は詩織の不安げな瞳を見て、そっと微笑んだ。
「そっか。じゃあ、庭のベンチで話そう? 紫陽花、きれいに咲いてるよ。落ち着いて話せると思う」
詩織は小さく頷き、早希の後ろについて庭の中へ入る、敷石の小径を歩く二人の足音が、初夏の風に混じって小さく響いた。
紫陽花の花が道の両脇で静かに揺れ、新緑の葉が木々の間で光を浴びて輝く。
まるで庭全体が、詩織の小さな悩みを優しく受け止める準備をしているようだった。
ベンチに腰を下ろすと、早希は詩織の紙袋に目をやった。
「それ、なに? また何か作ってきてくれた?」
詩織は少し慌てたように紙袋を開け、中から小さな栞を取り出した。シンプルな紙の栞だが、角には手描きの紫陽花のイラストが添えられている。
「これ…その、前に栞、拾ってくれて…お礼に、と思って…。自分で、描いてみたの…」
詩織は恥ずかしそうに栞を差し出し、早希はそれを手に取って目を細めた。紫陽花のイラストは少しぎこちないが、丁寧に色鉛筆で塗られた花びらが、詩織の純粋さを映しているようだった。
「わぁ、めっちゃかわいい! 詩織ちゃん、絵も上手なんだね。紫陽花、そっくりだよ」
早希の素直な称賛に、詩織の頬が赤くなる。彼女は小さく笑い、ベンチの上で足を揺らした。
「ほ、ほんと…? あんまり、自信なかったけど…早希さんが喜んでくれるなら、嬉しい…」
早希は栞を手に、大切そうに眺めた。
「これ、宝物にするね。詩織ちゃんの栞、なんか特別な感じがするよ」
その言葉に、詩織の瞳がキラリと光った。彼女は少し勇気を振り絞るように、口を開いた。
「早希さん…あの、相談、したいことがあって…」
早希は栞を紙袋にそっと戻し、詩織に体を向ける。
「うん、どんなこと? ゆっくり話してね。私、ちゃんと聞くよ」
詩織は深呼吸し、セーラー服の裾をぎゅっと握った、初夏の風がベンチを包み、紫陽花の花びらをそっと揺らす。
彼女の声は小さく、けれど確かに響いた。
「学校で…来週、体育祭があって…。私、運動、ほんと苦手で…。走るのも、球技も、ぜんぜんダメで…みんなの前で、失敗したら…恥ずかしいなって…」
詩織の瞳には、ほのかな不安が揺れていた。早希はそんな彼女の表情をじっと見つめ、優しく答えた。
「そっか、体育祭か。緊張するよね。私も昔、運動はあんまり得意じゃなかったから、気持ち、すごく分かるよ」
詩織は驚いたように早希を見上げた。
「え…早希さん、運動、苦手だったの? なんか…なんでもできそうなのに…」
早希はくすくすと笑い、ポニーテールを軽く揺らした。
「そんなことないよ! 私、子供の頃、かけっこでいつもビリだったんだから。体育祭の前、ドキドキして寝れなかったことだってあったよ」
その言葉に、詩織の緊張が少し解けたようだった。彼女は小さく笑い、ベンチの上で体を少し緩める。
「ほんと…? なんか、早希さんがそんなだったなんて…ちょっと、安心した…」
早希は紫陽花の花を指差し、話を続けた。
「でもね、体育祭って、勝つことだけが大事じゃないと思うんだ。詩織ちゃんが頑張ってる姿、きっとみんな見てて、応援してくれるよ。ほら、あの紫陽花みたいに、ゆっくり自分のペースで咲けばいいんだよ」
詩織は紫陽花を見つめ、目を細めた。青い花びらが風に揺れ、まるで静かに微笑んでいるようだった。彼女は小さく呟く。
「自分のペース…か。なんか、詩みたい…。でも、みんなの前で走るの、ほんと怖くて…」
早希は詩織の小さな手をそっと握った。その手は少し冷たく、緊張しているのが伝わってくる。
「怖いよね。でも、詩織ちゃんが頑張ってるの、絶対かっこいいよ。もし失敗しちゃっても、笑って『次、がんばろ!』って思えばいいんだ。失敗って、物語の面白いページみたいなもんだよ」
詩織は早希の手の温もりに、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた、彼女は小さく頷き、恥ずかしそうに微笑んだ。
「早希さん…ほんと、優しいね。話してると、なんか…怖いのが、ちょっと小さくなる気がする…」
「よかった! じゃあ、体育祭の日、詩織ちゃんのこと、こっそり応援してるね。心の中で、めっちゃ大声で!」
早希の明るい声に、詩織はくすくすと笑った。初夏の陽光がベンチを包み、紫陽花の花がそっと揺れる。まるでこの瞬間が、物語の新しいページのように、静かに刻まれていく。
その後も、二人は他愛もない話を続けた。
詩織は体育祭の種目について話し、早希は子供の頃の体育祭の思い出を笑いながら語った。
詩織が好きな本の話になり、彼女は最近読んだ詩集の話を恥ずかしそうに始めた。
早希はそんな詩織の話を、目を輝かせて聞いていた。
「詩織ちゃんの話、聞いてると、なんか庭がもっときれいに見えるよ。詩って、ほんとすごいね。言葉でこんな気持ちになれるなんて」
早希の言葉に、詩織は照れながら笑った。
「早希さんがそう言ってくれると…私、もっと本、読みたくなっちゃう…」
やがて、陽が西に傾き、空が淡いオレンジに染まり始めた。詩織は時計を見て、慌てたように立ち上がる。
「あ…もう、こんな時間…! お母さん、心配するから、帰らなきゃ…」
「そっか。じゃあ、また来てね。栞、ほんと嬉しかったよ。体育祭、詩織ちゃんらしく頑張ってね!」
早希の言葉に、詩織はパッと笑顔になり、こくこくと頷いた。
「うん! 早希さん、ありがとう…! また、来るね…!」
詩織は紙袋を手に、軽い足取りで正門へと向かう。早希はベンチから立ち上がり、彼女を見送った。
小さな背中が遠ざかる中、初夏の風が紫陽花の花びらをひらりと舞わせる。
詩織は振り返り、恥ずかしそうに手を振った、早希も笑顔で手を振り返す。
「詩織ちゃん、ほんと…かわいいな」
早希は小さく呟き、ベンチに戻って栞を手に取った。
紫陽花のイラストをそっと撫で、目を細める。詩織の純粋さが、庭の花のように心に咲いている気がした。
一方、詩織は通学路を歩きながら、ポケットの中の栞をそっと撫でた。
早希の優しい声と、庭での穏やかな時間が、胸の奥でキラキラと輝いている、体育祭の不安はまだ消えないけれど、早希の言葉が小さな勇気をくれた。
彼女は本の世界が大好きだったけれど、今日、早希と過ごした時間は、どんな詩よりも心に響いた。
「早希さん…また、会いたいな…」
詩織は小さく呟き、頬を赤らめる。六月の夕暮れの風が、彼女の髪をそっと揺らし、新しい物語の続きを予感させた。
屋敷の庭は、今日も二人の時間を静かに見守っていた。
紫陽花の花が夕陽に輝き、新緑の葉がそよぐ中、早希と詩織の小さな絆は、初夏の光に照らされて、ゆっくりと深まっていくのだった。