庭のクッキーとそよ風
五月の午後、屋敷の庭は春の柔らかな光に包まれていた。新緑の葉が木々の枝先でそよぐたび、陽光がキラキラと踊り、ツツジの花は赤やピンクの鮮やかな色彩で庭を彩っていた。
敷石の小径は、まるで物語のページをめくるように、屋敷の奥へと誘う。
風はまだ涼やかで、初夏の甘い香りを運び、どこか心をくすぐるような軽やかな調べを奏でていた。
早希は庭のベンチに腰かけ、ひと息ついていた。
今日も、黒と白のメイド服に薄緑色のエプロンを重ね、長い栗色の髪をゆるく三つ編みにしている、朝から屋敷の窓拭きと庭の水やりを終え、ようやく一休み。
彼女の手には小さな手帳があり、庭の花のスケッチを鉛筆でなぞっていた。
早希は絵が得意というわけではないが、庭の美しさを残しておきたいと思う気持ちが、こうして時折彼女をスケッチに向かわせる。
「ツツジ、今年は特にきれいだな…」
早希は呟きながら、ベンチの脇に咲くピンクの花を見つめた。
花びらに光が透け、まるで薄紙のランプのように輝いている、彼女は目を細め、風に揺れる花の動きを追いかけた、庭は、早希にとって心の休息の場所だった。
屋敷の静かな廊下も悪くないが、庭には生き物の息吹があり、季節の移ろいがそっと心に寄り添ってくれる。
そんな穏やかなひとときを過ごしていると、正門のあたりで小さな人影がチラリと見えた。
早希は手帳を閉じ、そっと立ち上がる、門の外に立っていたのは、数日前に出会ったあの少女だった、小柄で華奢な体に、中学校のセーラー服。
黒いミディアムヘアが春の風に揺れ、大きな瞳は少し緊張したようにキョロキョロと庭を見つめている。
詩織だ。あの日、風に飛ばされた栞を拾ってあげた、気弱そうな中学生の女の子。
早希は軽い足取りで正門に向かい、柔らかな笑顔で声をかけた。
「詩織ちゃん、こんにちは。また会えたね」
詩織はビクッと肩を震わせ、慌てて早希を見上げる。その頬はほんのり赤く、大きな瞳には恥ずかしさと期待が混じった光が宿っていた。
彼女は小さな紙袋を胸に抱き、ぎこちなく頭を下げた。
「あ、えっと…こんにちは、早希さん…」
詩織の声は小さく、風に溶けそうなほど儚かった。
早希はそんな彼女の様子にくすりと笑い、門の外まで出て、しゃがんで目線を合わせる。
「どうしたの? また何か落としちゃった?」
早希の軽い冗談に、詩織の頬がさらに赤くなる。彼女は紙袋をぎゅっと握り、勇気を振り絞るように口を開いた。
「う、ううん…その、前に、栞…拾ってくれて、ありがとうって…お礼、言いたくて…」
詩織はモジモジしながら、紙袋をそっと差し出した。
「これ…その、私、作ったんだけど…クッキー…食べて、くれると…嬉しいなって…」
早希は一瞬目を丸くし、紙袋を受け取る、袋の口を開けると、バターとバニラの甘い香りがふわりと漂った。
中には、星やハート、クローバーの形をした小さなクッキーが、丁寧に並べられている。手作りらしい素朴な形が、どこか詩織の純粋さを映しているようだった。
「わぁ、詩織ちゃんが作ったの? すごい! めっちゃ美味しそう!」
早希の声が弾むと、詩織の緊張が少し解けたようだった。彼女は恥ずかしそうに微笑み、髪を指でいじりながら呟く。
「初めて…ちゃんと焼いたから…あんまり上手じゃない、かも…」
「そんなことないよ! こんなかわいいクッキー、絶対美味しいって。ね、せっかくだから、一緒に食べない? 庭のベンチ、気持ちいいよ」
早希の提案に、詩織の瞳がキラリと光った、彼女は小さく頷き、早希の後ろについて庭の中へ入る。
敷石の小径を歩く二人の足音が、春のそよ風に混じって小さく響いた。
ツツジの花が道の両脇で微笑むように揺れ、新緑の葉が木々の間で囁き合う、まるで庭全体が、二人の小さな冒険を見守っているようだった。
ベンチに腰を下ろすと、早希は紙袋からクッキーを一つ取り出し、詩織に差し出した。
「はい、詩織ちゃんもどうぞ。作った本人が食べないなんて、もったいないよ」
詩織は少し躊躇しながらも、クローバー型のクッキーを手に取る。彼女は小さな口でクッキーをかじり、目を細めた。
「…美味しい?」
早希がにこにこしながら尋ねると、詩織はこくこくと頷く。
「うん…自分で言うの、変だけど…ちゃんと、できた…かなって…」
早希もハート型のクッキーを口に運ぶ。サクッとした食感と、優しいバニラの甘さが広がった。
手作りならではの素朴な味わいが、早希の心を温かくする。
「うん、すごく美味しい! 詩織ちゃん、センスあるね。こんなクッキー、屋敷の主人にも出したいくらいだよ」
その言葉に、詩織の顔がパッと明るくなった。彼女は少し照れながら、ベンチの上で足を小さく揺らす。
「ほんと…? よかった…。お母さんに教えてもらいながら、作ったの…。早希さんに、食べてほしくて…」
「え、私のために? やだ、めっちゃ嬉しいんだけど!」
早希は大げさに胸に手を当て、笑顔で詩織を見つめた。詩織はそんな早希の反応にくすくすと笑い、恥ずかしそうに視線を下げる。
春の風が二人の間をそっと通り抜け、ツツジの花びらを一枚、ベンチの脇に落とした。
「ね、詩織ちゃん、学校はどう? 中学、始まったばっかりだよね?」
早希はクッキーをもう一つ手に取りながら、気軽に尋ねた。詩織は少し考え込むように、クッキーを手に持ったまま答える。
「うん…ゴールデンウィーク、終わっちゃって…ちょっと、緊張してる。クラス、知らない子ばっかりで…」
詩織の声は少し小さくなり、瞳にはほのかな不安が揺れていた。早希はそんな彼女の表情に気づき、優しく微笑む。
「そっか、最初は慣れないよね。私も昔、新しい場所に行くとドキドキしてたよ。でも、詩織ちゃんみたいな子なら、きっとすぐに友達できるよ。だって、こんな美味しいクッキー作れるんだもん」
早希の軽い口調に、詩織は小さく笑った。彼女はクッキーをかじりながら、庭の奥を見つめる。
「早希さんは…いつも、こんなきれいな庭にいるの?」
詩織の質問に、早希はベンチに背を預け、空を見上げた。雲一つない青空に、鳥が一羽、軽やかに滑っていく。
「うん、庭仕事、結構好きなんだ。花とか木とか、毎日ちょっとずつ変わるから、飽きないの。ほら、あのツツジ、昨日よりちょっと花が増えた気がしない?」
早希が指差す先で、ピンクの花が風に揺れている。詩織は目を細め、じっと花を見つめた。
「ほんと…きれい…。なんか、詩みたい…」
「詩?」
早希が興味深そうに尋ねると、詩織は少し照れながら答えた。
「うん…私、本、好きで…詩とか、童話とか、よく読むの。花とか、風とか、見てると、なんか…物語のページみたいに、頭の中で言葉が浮かぶの…」
詩織の言葉は、まるで春の風のように軽く、けれど心に残る響きを持っていた。
早希はそんな彼女の言葉に、胸の奥がくすぐられるような感覚を覚えた。
「へえ、詩織ちゃん、詩人みたいだね! どんな言葉が浮かんだの? 教えてよ」
早希の好奇心に満ちた声に、詩織は少し慌てたように手を振る。
「え、だ、だめ! 恥ずかしいよ…! ただ、なんか…ツツジの花が、風に笑ってるみたい、って思っただけ…」
「それ、めっちゃ素敵じゃん! 風に笑うツツジ、か。詩織ちゃんの頭の中、絶対キラキラしてるね」
早希の素直な称賛に、詩織の頬がまた赤くなった。彼女はクッキーを手に、ベンチの上で小さく体を揺らし、照れ隠しのように笑う。
「早希さん、ほんと…優しいね…。話してると、なんか、安心する…」
その言葉に、早希の心がふわりと温かくなった。彼女は詩織の純粋な瞳を見つめ、そっと答える。
「詩織ちゃんの話、聞いてると私も楽しいよ。なんか、こう…庭がいつもよりキラキラしてる気がする」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。春の陽光がベンチを包み、ツツジの花がそっと揺れる。
クッキーの甘い香りが二人の間に漂い、まるでこの瞬間が小さな物語のページのように、静かに刻まれていく。
その後も、二人は他愛もない話を続けた。
詩織が最近読んだ本のこと、早希が庭で見た鳥の話、ゴールデンウィークの思い出。
詩織は、家族と近くの公園に行った話を恥ずかしそうに語り、早希は屋敷で主人のために焼いたケーキの失敗談を笑いながら話した。
会話は途切れることなく、風のように軽く、けれど確かに二人の心をつないでいく。
やがて、陽が西に傾き始め、空がオレンジ色に染まり始めた、詩織は時計を見て、慌てたように立ち上がる。
「あ…もう、こんな時間…! お母さん、心配するから、帰らなきゃ…」
「そっか。じゃあ、また来てね。クッキー、ほんと美味しかったよ。次は私も何かお返しするね」
早希の言葉に、詩織はパッと笑顔になり、こくこくと頷いた。
「うん! また、来るね…! 早希さん、ありがとう…!」
詩織は紙袋を手に、軽い足取りで正門へと向かう、早希はベンチから立ち上がり、彼女を見送った。
小さな背中が遠ざかる中、春の風がツツジの花びらをひらりと舞わせる、詩織は振り返り、恥ずかしそうに手を振った。
早希も笑顔で手を振り返す。
「あの子、ほんと…かわいいな」
早希は小さく呟き、ベンチに戻って紙袋を手に取った。残ったクッキーを一つ口に運び、目を細める。
甘いバニラの味が、詩織の笑顔を思い出させた。
一方、詩織は通学路を歩きながら、ポケットの中の栞をそっと撫でた。
早希の優しい声と、庭での穏やかな時間が、胸の奥でキラキラと輝いている。
彼女は本の世界が大好きだったけれど、今日、早希と過ごした時間は、どんな物語よりも特別なページのように感じられた。
「早希さん…また、会いたいな…」
詩織は小さく呟き、頬を赤らめる、五月の夕暮れの風が、彼女の髪をそっと揺らし、新しい物語の続きを予感させた。
屋敷の庭は、今日も二人の時間を静かに見守っていた。
ツツジの花が夕陽に輝き、新緑の葉がそよぐ中、早希と詩織の小さな絆は、春の光に照らされて、ゆっくりと芽吹き始めていた。