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プロローグ

 

 五月の風は、初夏の香りをほのかに運んでいた。ゴールデンウィークが終わり、街はいつものリズムを取り戻している。

 広大な屋敷の庭では、新緑の木々が陽光に輝き、色とりどりのツツジが花壇を彩っていた。

 古風な石造りの正門をくぐると、敷石の小径が庭の奥へと続き、遠くには白壁の屋敷が静かに佇む、ここは、街の喧騒から少し離れた静かな場所。

 時間がゆっくりと流れているような、穏やかな空気が漂っていた。

 早希は、庭の隅で小さなシャベルを手に、ツツジの根元に肥料を施していた。

 19歳の彼女は、この屋敷で住み込みのメイドとして働いている。

 

 黒と白のクラシックなメイド服に、庭仕事用の薄緑色のエプロンを重ねた姿は、どこか親しみやすい。

 長い栗色の髪をゆるく三つ編みにし、陽光に照らされたその顔には、いつも柔らかな笑みが浮かんでいる。

 彼女の仕事は屋敷の掃除や庭の手入れ、時折の食事の支度。

 屋敷の主人は滅多に姿を見せず、他の使用人も少ないため、早希は自分のペースで仕事を進められる自由な時間が多かった。

 

「ふう、春ってほんと気持ちいいな」

 

 早希はシャベルを置いて手を伸ばし、新緑の葉に触れた。

 陽光が木々の間をすり抜け、庭にまだらな影を落としている。彼女は目を細め、そよ風に揺れるツツジの花を見つめた、庭は早希にとって特別な場所だった。

 屋敷の中は静かで落ち着いているけれど、庭には生き物の息吹があり、季節ごとに変わる花や木々が心を和ませてくれる。

 そんな穏やかな時間を楽しんでいると、正門のあたりで小さな人影が動いているのに気づいた。

 早希はシャベルを花壇の脇に置き、そっと近づいてみる。

 門の外、敷石の道の脇で、女の子がオロオロと立ち尽くしていた、小柄で華奢な体に、中学校のセーラー服。

 黒いミディアムヘアが風に揺れ、大きな瞳はどこか不安そうに庭の奥を見つめている。

 いかにも気弱そうな雰囲気で、早希の胸に小さな保護欲が芽生えた。

 

「ねえ、大丈夫? 何か用?」

 

 早希は門まで歩み寄り、柔らかい声で話しかけた、女の子はビクッと肩を震わせ、慌てて振り返る。

 その顔は、まるで子猫のように愛らしく、頬がわずかに赤らんでいた。

 

「あ、えっと…その…」

 

 女の子は言葉に詰まりながら、視線を庭の奥へと彷徨わせる。

 早希は彼女が何か困っているのだと察し、門の外まで出て、しゃがんで目線を合わせた。

 

「ゆっくりでいいよ。どうしたの? 何か落とした?」

 

 早希の穏やかな声に、女の子は少しだけ緊張を解いたようだった。

 彼女は小さな手をぎゅっと握り、恥ずかしそうに口を開いた。

 

「栞…。本の栞、風に飛ばされちゃって…。たぶん、あの庭の中に…」

 

 その声は小さく、震えていた。

 早希は「なるほど」と頷き、庭の奥を見やる、ツツジの花壇や、低い灌木のあたりに、確かに何か白いものがチラリと見えた。

 

「栞ね。よし、ちょっと見てくるから、ここで待っててね」

 

 早希は笑顔でそう言うと、シャベルを門の脇に置き、庭の奥へと軽い足取りで向かった。

 女の子は門の外でじっと早希を見つめ、まるで祈るように手を胸の前で組んでいる。

 花壇の脇、灌木の根元に、白い紙の栞がひらりと落ちていた。

 シンプルなデザインだが、角には小さなクローバーのイラストが描かれている。

 早希はそれを拾い上げ、土をそっと払う、大切なものなのだろう、と直感した。

 彼女自身、かつて本が好きだった時期があり、栞に特別な思い入れを持つ人の気持ちが少しだけ分かった。

 

「これかな?」

 

 早希が栞を手に戻ってくると、女の子の顔がパッと明るくなった。

 

「それ! それです! ありがとう、ありがとう…!」

 

 女の子は勢いよく頭を下げ、栞を受け取ると、まるで宝物のように胸に抱きしめた。

 その仕草に、早希はくすりと笑う。

 

「よかった。風が強いから、気をつけて持って帰ってね」

 

 早希の言葉に、女の子はこくこくと頷き、ようやく少し落ち着いたようだった。

 彼女は栞をそっとセーラー服のポケットにしまい、改めて早希を見上げる。

 

「えっと…私、詩織っていいます。中学一年生で…。この栞、大切な本のやつで…」

 

 詩織と名乗った少女は、恥ずかしそうに自己紹介した。早希は微笑み、軽く手を振る。

 

「私は早希。この屋敷でメイドやってるの。詩織ちゃん、よろしくね」

 

「メイド…! わ、すごい…!」

 

 詩織の瞳がキラキラと輝いた。

 まるで物語の中の人物に会ったような、純粋な憧れの眼差し、早希はそんな視線に少し照れながら、庭を指差す。

 

「ここ、結構広いから、たまに物が飛んできたりするんだよね。また何かあったら、気軽に声かけてね」

 

「う、うん…! ありがとう、早希さん…!」

 

 詩織は頬を赤らめながら、深々とお辞儀をした。その仕草があまりにも丁寧で、早希は思わず笑顔になる。

 

「そんなかしこまらなくていいよ。ほら、そろそろ帰らないと遅くなっちゃうでしょ? 学校、遠い?」

 

「ううん、近く…。この道、いつも通るから…」

 

 詩織は少しもじもじしながら答えた。

 早希は「そっか」と頷き、門の外まで詩織を見送る。

 

「じゃあ、またね、詩織ちゃん」

 

「うん…! また、来ても…いい?」

 

 詩織の小さな声に、早希は一瞬ドキリとした。

 その純粋な瞳と、どこか期待を込めた表情に、胸の奥が温かくなる。

 

「もちろん。いつでもおいでよ。庭、春は特に綺麗だから、ゆっくり見てくのもいいかもね」

 

 早希の言葉に、詩織はパッと笑顔になった。

 その笑顔は、五月の陽光に負けないくらい眩しくて、早希は思わず目を細めた。

 詩織は栞を握りしめ、軽く手を振って帰路についた。

 小さな背中が遠ざかるのを、早希は門の脇に立って見送る。風がツツジの花を揺らし、新緑の葉がそよぐ。

 まるで、この出会いが何か特別なものの始まりを予感させるかのように。

 

「あの子、かわいいな…」

 

 早希は小さく呟き、シャベルを手に庭へと戻った、彼女の胸には、ほんの少しの好奇心と、詩織の笑顔が残していた温もりが広がっていた。

 

 一方、詩織は通学路を歩きながら、ポケットの中の栞をそっと撫でた。

 早希の優しい声と、穏やかな笑顔が頭から離れない、彼女は本が大好きで、いつも物語の世界に逃げ込むように生きてきた。

 でも、今日、初めて現実の世界で、物語の主人公のような人に会えた気がした。

 

「早希さん…」

 

 詩織は小さく名前を呟き、頬を赤らめる。

 五月の風が彼女の髪を揺らし、どこか新しいページが開くような予感を運んできた。

 屋敷の庭は、これからも二人の時間を静かに見守るだろう。

 春の陽光の下、ゆっくりと、けれど確かに、早希と詩織の物語が始まろうとしていた。

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