第一話「どん底の世界」O
ーー5月21日午前7時ーー
目が覚めた。と著すのが最も良いだろうか。それとも、目が冷めた。のほうが適格であろうか。
チュンチュンと窓の外で、雀が忌々しい人間のように自己の存在を主張しようと騒いでいる。
寝起きの耳を貫く雀を睨みながら思わず開きかけていたカーテンを思いきりスライドして日光を遮断し、再び眠りに入ろうとした。
が、眠れない。一度レム睡眠から冷めてしまったこの脳は再び自分に眠りというぬるま湯に浸かることを許してくれなかったのだ。
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覚醒した意識は天井に据え付けられたLEDの照明を写している。
右手には大きな窓に、日光という汚いものに蓋をするためのカーテンが掛かっている。
向かって左側には、茶色い手入れの行き届いた縦長の扉がのしっとたち塞いでいる。
そして部屋の隅には、本棚が3つ。
それぞれ大量のライトノベルや小説、プリントでぐちゃぐちゃに飾られていた。 まるで星星がプリントされたようなガの羽根のように、情報量の多い空間であった。まさに入り乱れていた。
自分が毎日寝て起きて生活という作業をするために使用する部屋だと納得できるほどに生活感がひしひしと感じられた。
まるで、使い古されてもはや読むことのできない絵本のように。
ただし、内情は絵本と違う。
絵本は、愛されて使い古されたのであり、この陰鬱な部屋は、愛という言葉も知らずただ無為に使われてきた部屋という点だ。
そんな無機的だが妙に生活感のある部屋から逃げ出して、想像を絶する速度で身支度をした。なぜかって。絶対登校時間という社会の縛りに追われているからだ。
今日は5月21日。家の汚れた壁にぶらんと宙吊りにかけられたカレンダーが勝手に教えてきた。
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俺の通う高校は家から少し遠い。
どれくらい遠いかと言うと、アリが自宅の食卓を一周するのにかかる時間以上はかかると考えても早計ではない。
よってそんな遠い道のりには自転車が不可欠であり、もちろん俺は自転車に乗って毎日死んだ鳥を道端で見つけてそばに居た小学生に犯人扱いされ罵られた時のような顔で登校しているのだ。
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生ぬるい風が俺の頬をえぐり掠め取ってくる。
通学路に点在する信号機が自我を持っているかのようにことごとく俺をブロックしてきた。
学校周辺に植えられた桜の木は薄汚いピンク色の花を満開にし、同時に蚊柱が俺の顔に衝突してきた。
校門に備え付けられた「厳島高等学校」という銅板はいつもよりくすんで錆びていた。
校門を抜け学校という強制収容所に入る。
いやいやながらも自主的に収容所に入る俺はなかなかメンタルが強いのではないだろうか。
喜んで登校する周りの人間はこの強制収容所がどんなふうに見えているのだろう。
ふと頭の右斜め上30度方面から朝学活の予冷のチャイムが流れた。少し足早に廊下を駆けていく。周りの人間が生み出す雑踏と彼らの体をすり抜けながら教室に入る。
今から始まる変化のない日常に最大級の反吐を心にかまして一つ。
「やれやれだぜ…」
その声というほど大きくない音は教室という青春の空間ではじぇて散った。
その声を聴こうとするものも、その音を聞いている者も誰も、なにもなかった。
教室はやけに広くガランとしていた。
電灯がついていないせいか、教卓付近は一層暗く、その暗黒の領域になにかいるように感じた。
いつもは忌々しく消えてほしいとさえ思うクラスメイトの人影が見当たらないことに俺は恐怖を感じた。
捻くれて捻くれて、感情の高鳴りすらも遠い過去に捨ててきたこの俺の心臓が、いまバクバクと脈を立てて唸っている。
その鼓動は、壁面に据え付けられたかけ時計が刻む律動的な音階をかき消すほどに激しく打ち鳴らしていた。
なぜこの教室には人影がないのだ。
なぜ誰もいなくなった。
自分はついさっき廊下で多くの人間とすれ違った。
そこには同じクラスの連中ももちろん見受けられた。
ではなぜいまこの空間に俺は一人残されているのだ。
人が作り出す音がないせいで、恐ろしいほどの静けさが心臓の活動を活発化させた。
俺以外有機生命体のいないこの灰色の豆腐はやけに大きく感じた。
豆腐に開けられた穴、いわゆる窓から外の風が入ってくる。
外気とは思えないその生暖かい風に後ろ髪がなびく。
___________________________________恐ろしかった。
正体のしれない何者かに襲われるのではないかと危惧した。
長らく忘れていた恐怖を思い出し、考えることができなかった。
本能のままに教室から逃げ出そうと一目散に扉へ向かった。
廊下に出て周囲を確認した。誰かいるのではないかという少量の希望を持って。
俺の人影の前方に人影は、、なかった。
後方には…。
俺は一人のようだった。
その事実の再確認がこの胸をより一層高鳴らせる。
あぁ俺はすべてに見捨てられたのか…。
この世界には神隠しという伝承が存在する。神隠し。なぜ今まで神隠しについて思い出さなかったのか。気にかけなかったのか。
当たり前だが、伝承の被害者いわゆる中心人物にならなければ気にもかけないだろう。
ではなぜ脳裏によぎったのか。おれはそこまで思考した後、ある可能性に気づいた。
たった一つの人影が廊下と教室の間に現れた。
そして教室の窓から吹いてきた
生ぬるい風とともに、
「失敗だね。」
そう何かが言った気がした。