今や歯医者の数はコンビニより多いらしい
水を飲んだ時、右の奥歯にズキリと痛みを感じた。
この日をきっかけに、その奥歯の痛みはどんどん増していき、無視できないぐらいのものになっていく。
こうなると食事の仕方もおかしくなるので、とうとう妻にも感づかれてしまう。
「ねえ、もしかして歯が痛いんじゃないの?」
私は素直に白状する。
すると――
「歯医者さんに行った方がいいわよ」
「大丈夫だって……」
「江戸時代は虫歯で亡くなった人もたくさんいたそうよ。虫歯から悪い細菌が入って、そこから全身をボロボロにされるんですって」
こんな物騒な知識、一体どこで仕入れたんだか。
「おどかすなよ……」
「おどかしじゃないって」
こんな会話を経て、私はついにスマホで歯医者探しを始めた。
会社帰りに寄るのにちょうどいい歯医者は、と――
検索してみると、歯医者ってのは意外に多い。
『歯医者』で検索するだけで自宅の近くに五軒ほど見つけることができた。
この中のどれにすべきか……。正直、歯医者の良し悪しなんて分からないので、口コミで「とても親切でした」というレビューがあった歯医者に行ってみることにした。
電話で予約して、その日の仕事を早く終わらせて歯医者に向かう。
問題の奥歯はやはり虫歯になっていた。
しかし、担当してくれた歯科医さんは優秀で、虫歯はこの日のうちに削って治療してくれて、さらに歯石取り、ブラッシングの指導までしてもらえた。
あまりのあっけなさにもっと早く行っておけばよかった、と思うほどだった。
このことを妻に話すと「だから言ったでしょ?」と喜んでくれた。
それにしても、と思う。
「スマホで調べて分かったんだが、今歯医者ってあんなに多いんだな。ビックリしちゃったよ」
私が子供の頃は、近所に歯医者は一軒しかなかった。
「きったねえ歯だなぁ」と遠慮なく言うような、かなり怖い感じの先生だったので、それが大人になってからも歯医者通いをためらわせた部分もある。
「歯医者さんってどんどん増えてて、今やコンビニの数より多いらしいわよ」
「へぇ~、そうなのか」
コンビニより多いとは驚きだ。
ウチの近くだけで比較してみても、すぐ行ける距離にコンビニは三軒あるが、歯医者は五軒なわけだから、確かに歯医者の方が多い。
すると当然こういう疑問も湧く。
歯医者がこんなに多くて、商売が成り立つのかな――と。
しかし、私が行った歯医者さんも他に患者はいたし、十分成り立っているのだろう。
現代は甘くて美味しい物が多いし、なおかつ私のように歯の健康を疎かにする人も多い。歯石取りなどは自分でやるのも難しい。
だから、歯医者はいくらあっても困らないということなんだろうな。
私も今後は歯磨きをしっかりして、二度と虫歯にならないようにしよう。
***
しばらくして、会社帰り、私は最寄り駅の周辺で立ち止まる。
「ずいぶん歯医者増えたなぁ……」
目で見える場所だけでも、数軒歯医者を確認できる。
『~歯科』
『~デンタルクリニック』
『~歯科医院』
こんな看板があちこちに並んでいる。
気づかないうちにこんなに増えたのか、と思わず感心してしまった。
家で妻にこのことを話すと――
「ご近所さんも今度、歯医者を開業するみたいよ」
「そうなのか。ずいぶん思い切ったことするなぁ」
「でも、これだけ増えてるってことはそれだけ魅力的な職業なのかもしれないわね」
「ああ、きっとそうなんだろうな」
この日の晩餐は静かに終わった。
だが、私たち夫婦の中に“何か”が芽生えているのは確かだった。
***
会社の昼休み、読書をしている同僚がいた。
「何を読んでるんだ?」
私が聞くと、同僚が表紙を見せてくれた。
『歯科医入門』という本だった。
「歯医者を目指してるのか」
「ああ。ここらで一念発起して、と思ってね」
この同僚だけではない。
同じ社の仲間にも、取引先にも、「歯医者を目指す」と公言する人をよく見かけるようになった。
これを妻に話すと――
「私のお友達も目指すことにしたみたいよ、歯医者」
「へえ……」
近所にはますます歯医者が増えていく。
新しく店がオープンすると思ったら、まず間違いなく歯医者だ。
しかし、私はこれも時代の流れなのだろう、とさして気にも留めなかった。
***
時は流れ、気が付くと私の家の周囲は歯医者だらけになっていた。
左右のお隣さんも歯医者、お向かいも歯医者、もはやこの辺で歯医者ではないのは私の家だけという状況だ。
私は妻とこのことについて話す。
「いやー、とうとうこの辺で歯医者じゃないのはウチだけになったな」
「そうねえ」
たとえるなら、盤面がほとんど“白”だらけになったオセロという感じだろうか。
なぜ白なのか。だって歯医者は歯を白くする職業じゃないか。当然白である。
こうなればわずかに残った“黒”である我が家も当然――
「ウチも歯医者を開業しないか?」
「私も同じことを考えていたわ」
夫婦で意見が一致し、私たちは猛勉強を始める。
私が院長で、妻には歯科助手を担当してもらう。
資格を取り、設備を整え、看板を取りつけ、白衣を身につけ、準備万端。
こうしてついに我が家も歯医者になった。
何も疑問に感じる必要はない。だってこれが時代の流れなら、当然のことじゃないか。
今や歯医者の数はコンビニより多いらしい。
完
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