第八話 学校にて
第八話 学校にて
キャシー・キャロル・キャラハン。彼女が防犯課にスカウトされてずいぶん経つ。
もともとそれなりに聡明な女性で、与えられた仕事をよくこなしていた。
だが、明石も富永もまだ納得していないところがあった。
「キャラハンの潜在能力を活かしきれておらん……」
ある意味才能発掘オタク的な部分のある明石課長がつぶやく。
防犯課を最強の諜報組織にする。そのためには尖った人材だけを集める必要がある。
キャシー・キャロル・キャラハンの異能、それは恋人のビリーを守るために発揮された聖母スキル!
実際普段の業務でもその才能の片鱗は垣間見えた。人をなだめる天性の才能があり、防犯課の面々はほだされることも多かった。
「キャシいいいいい、もう疲れたあああ」
「はいはい富永さん、大丈夫よー」
「びええええええええええええん!」
「よしよし。小夜ちゃん泣かないの……」
「治安局長がマジギレしてたぜ……」
「大丈夫ですか? ウイスキーでもいかが?」
「この評定は何だ……私の手柄が」
「大丈夫、みんな木枯さんの貢献を知ってるわ」
防犯課の面々は思う。
――聖母……!
なのに。
「不可能だ、このペースでは終わらん……‼」
「あら深月さん。ビリー君の悪口を言うからよ」
ひとり深月技官にだけはあたりが強かった。恋人を批判されたことを根に持つタイプである。あわれ深月悟の受難である。
ともあれ。
「あの才能は活かさねばならんな」
現状キャシーの担当はネゴシエーター。もちろん彼女は元民間人で訓練を受けてはいない。が、非常に優れた交渉人になれると明石は踏んでいた。
「俺の人を見る目はまだ腐っちゃいないぜ」
と自信ありげである。
いずれにせよ、どこかでキャシーにも本格的な仕事を与えねばならぬ。
そう明石が考えていた折。
「……学校?」
治安局長より地域の学校における生徒指導の任務が与えられたのだ。
「……そうだ。カモフラージュの一環だよ」
防犯課の真の仕事は違法行為すれすれの強制捜査。だが表の仕事は地域内の防犯活動である。
「最近は今名君が派手にやってくれてるみたいだからねえ」
「……」
冷や汗を流すしかない明石である。
「ちと頭を冷やしなさい。防犯課は政治的に難しい立場にあることを忘れるな」
「……はっ!」
これはよい機会かもしれぬ、と明石は思った。
カモフラージュだから危険性は少ないし、キャシーに仕事の楽しさを教えるいい機会だ。生徒指導を彼女に任せ、適性を見るのはアリかもしれぬ。ていうか、子供の相手はめんどいし。
局長は、うまく不良どもを更生させて防犯課の評判を上げれば相応の褒美を与えると言っていた。ならばそれこそキャシーに対する実地訓練兼適性検査のチャンスではないか? それに、うまくやれば仕事さぼれるし!
「これで決まりだ……!」
「……というわけだ。キャラハンよ、交渉の実地訓練だ。ここに記載してある中学に行き、不良どもを更生させてこい」
ビリーを見事更生させたようにな……と口に出しては言わない。課長は賢いもんね。深月みたいになりたくないし。
「まあ面倒さえ起こさなければ失敗してもいいんだし気楽にやってこい。実地訓練なんだから」
「ですが、私は荒事は……」
「護衛なら富永と木枯をつける。暴力沙汰になりそうになったら二人が制圧する。お前はお喋りさえしてればいいんだ」
「では……」
とキャシーは頷く。
「頑張るのよ、キャシー……!」
キャシーの聖母スキルが発揮されれば今後の任務が楽になる可能性が高い。というわけで富永も後押しする。
「まあ……いざとなったら悪童どもは蹴散らしますから安心しててください」
木枯も特に異論はない。もっともはじめから任務に好き嫌いを言うタイプではないのだが。
……さて。
木枯東風は呆れかえっていた。
件の中学の有様に。
「んだコルア、シシュっちゃっちゅつつンダコルア‼」
「でぅるっしゃシュルるシュルりゅあコルア!」
「……えー皆さん、今日は生徒指導に防犯課の方々が……」
「ジュルルぶりゅシュシュりゅあ、ゴルア!」
頼むから標準語を喋れゴルア!
東風はちらりと隣に立つ富永の顔を見る。
「……」
完全に固まっていた。
富永よ。なあ富永よ、富永よ。これはないよな、いくらなんでも。
「……うすのろの 野山の猿の 床すらも かくあるるとは おもわざりしを」
現代語訳。
うすら馬鹿と評判の野山の猿どもの寝床ですらも、このようにある(荒れる)とは思わないことであるよ。
さすが分析官、お上手ですね。次、キャシーさん!
「ビリーくん。この人たちはなんなのよ。私なんかに更生は無理」
ですよねー。明石課長のせいですよ。
一句。
数ならぬ 課員の明日は 秋風の 散らす木の葉の 影やとぞ見む
現代語訳。
物の数にも入らない末端の防犯課員の明日の運命は、秋風に吹かれて命を散らす木の葉の影に似ていることであるよ。
これを古典の教科書に載せろ!
末端の人間はトイレットペーパーに似ている。上司の尻を拭い、最後は水に流される。出世して安定した地位を築くことを胸に誓う木枯であった。
予想通り、彼らの更生は難航した。
「ほらちょっと……先生の話を聞いて」
「うぜえんだよババア!」
キャシーさんはババアというほどの年じゃないぞー、クソガキども。
キャシーはさっそくデカパイエロ教師などと言うひどいあだ名をつけられ小突き回されていた。悪童どもよ、気持ちはわかる。キャシーさんってなんかそっちの素質ありそうだもんね。ダメ男を養いたがる習性といい、幸薄そうな感じといい。
この年代の子どもは大人にひどいあだ名をつけるのが好きである。私にも記憶あるもんね、それは。
不良らの矛先は木枯東風にも向けられた。
「なんだてめえ、国語の教科書に載ってそうな見た目しやがって! 白黒写真でオセロでもしてろ、原稿料一束二銭の三文文士が!」
「……」
妙に語彙力があってむかつくな。それはそうと富永さん。
「ブフォ……一束二銭の三文文士て……いいこと言うじゃない……」
笑いこらえてんのは分かってるからな? それに二銭もらえるなら三文文士じゃねえじゃん!
「あの子たち意外といい子かもね? やっぱり若い子の感受性は素直だわ」
「馬鹿めが、ああいう手合いはさっさとしょっぴいて……」
今の発言で悪童らへの印象が好転したのか、富永は歩み寄りの姿勢を見せた。
「ねえあなたたち、お姉さんちょっとだけ見直したわ。意外と人を見る目あるじゃない。ひとまずは私の話を聞いて……」
「んだこるあ三枚舌の化け狐が! 金魚のフンになって腐った水のなか漂ってろ、コウモリ!」
「何ですって……」
なんだ、心根は正直で素直ないい子たちじゃないか! 富永の歪んだ利己心といやらしい保身を正確に見抜いている。こういう青少年がいる限りこの国の未来は安泰だな!
「富永よ、若い子の感受性は実に素直だな……」
「何を言ってるの。こういう連中が世の中を悪くするのよ。さっさと礼儀を叩き込んで……」
ひとつだけわかったこと。
あの悪童どもはそう悪い連中ではない。富永の敵であるなら私の味方ではないか。うまく懐柔してやれば頼もしい味方になるやもしれぬ。司法取引を得意とし、今名小夜すら手名付けた敏腕捜査官の力を見せてやろう!
「やあやんちゃ君たち。元気なのはいいことだね……」
「うるせー‼」
ボカっ!
視界が反転し、天井が下になった。
「こ……木枯さん⁉」
「よっしゃあああざまああああ!」
薄れゆく意識の中、東風は誓った。
司法取引で犯罪者と抱き合ったとしても、富永常夜だけは許さない。
「木枯くん……一応対人格闘術習ったのよね?」
富永のお説教。
目が覚めた時、キャシーさんの膝枕を期待してうなされたふりをしていたが、普通に硬いベッドに横たえられていただけだった。こういう時にこそ聖母スキルを発揮せんかい!
「油断してたんだよ……」
「油断するな! これも任務なんだから……」
正論である。言い返すこともできず、笑ってごまかすほかはない。
「あのクズたちはなんとかしなければ……」
キャシーの聖母スキルも無駄であった。こうなれば防犯課の実力行使といくほかない。
「ダメ。カモフラージュなんだから穏便にいかないと」
「ですよねー」
知ってらあそんなこと。
「あ、あの……じゃあどうすれば」
不安げな表情のキャシーである。ふうむ、先輩として頼もしいところを見せたいなあ。
「基本的に人を動かす方法は二つしかない。利益で釣るか、恐怖で脅すか」
要するにアメとムチである。
実力行使が不可能ならアメを与えるしかない。不良どもが欲しがるであろうものを我々は持っているか?
あるじゃないか。
キャシーさん。キャシーさんだよ!
不良といえども健全な男子中学生ならキャシーさんには甘えたかろう。
「防犯課、反撃を開始する!」
「いい子、いい子」
「へ……へへ……」
オペレーション・マリア。
キャシー・キャロル・キャラハンの聖母スキルを活用した懐柔作戦。
「一応聞いておくけどどうして私は作戦から外されたのかしら」
「決まってるだろう。お前は見た目が底意地悪そうで爬虫類っぽいから嫌がられると思ったんだよ」
我ながら完璧な作戦じゃないか?
どのみち今回の任務はキャシーメインなのだ。彼女の訓練が主目的。
「ならもうキャシーの聖母スキルに丸投げすりゃいいんですよ」
はじめからそうするべきだった。
「木枯くんって……女性をそそのかす才能あるわよね……」
そういえば標的に惚れてしまった今名小夜を懐柔したのも東風である。富永はため息をついた。
キャシーはすっかり自信を失っていた。私には無理なんです、と現場復帰を渋る。
そんなキャシーに木枯は次のような説明をした。
あの悪童どもを見よ。そして彼らの将来がいかなるものになるか想像してみよ。ビリー君にどこか似ていると思わないか?
「いや……ビリー君はもう少し」
「本当にそうか? まあもちろんそうだろう。ビリーはもう少ししっかりしていたからな」
適当にビリーをヨイショしてキャシーの警戒を解く。
「だがビリーは……刑務所にいるビリーは、彼らに道を踏み外してもらいたいと望むだろうか? 今必死に勉強をしている彼が? そんなことをビリーが望むと思うのかね?」
「そ、それは……」
「望まないだろう、望まないに決まってる! ビリーはそんな奴じゃないからな。なんせ君が愛した男だ」
「それは……もちろんです」
富永の視線が痛い。そんな目で見るなよ、別に悪気があるわけじゃないんだから。
「ならば君が彼らを更生させることは……ビリーの望みに合致したことではないのかね? 彼は今、自分と同じような人間を作らないよう、刑務所で勉強をしているのではなかったかね?」
「それは……でも」
「わかっているよ、ビリーに操を立てたいのだろう? もちろん変なことまでは要求しないさ。だが君が彼らの更生のため君の魅力を使ったとして……」
それをビリーが恨むと思うか?
木枯の言葉に動揺を隠せないキャシー。もう一押し!
説得の方針を理解したのか、富永が話に加わる。
「キャシー……つらいでしょうけど木枯くんの言う通りよ。この作戦はビリーの望みに合致しているし、ビリーがそのことであなたを恨むとも思えない。だって……」
――あなたの彼氏は、木枯くんみたいな器の小さい男ではないでしょう?
「そ、それは……富永さんのおっしゃる通りです……!」
「うん、私の作戦の意義が分かっているじゃないか二人とも」
にこやかな表情を保つも内心怒り心頭の木枯である。
私の器が小さいだと? しかも……聖母キャシーまでそれに同意した? いやいやキャシーは人を見る目がないし……そうだよそうに決まってる。富永め、説得のためとはいえいちいち人を悪く言いやがって。絶対に許さん。
「いい子、いい子。ちゃんと勉強すればできる子……」
「へ、へへ……俺って少しは才能ありますかね」
「あると思うわ……ちゃんと先生の言うことを聞けば伸びるのにもったいないわ」
「へ……じゃあ少しやってみっかな……」
キャシーさんは殴られて気絶した私を甘やかしてはくれなかったのにクソガキには優しくするのか。いや、自分で立てた作戦なんだが。あのクソガキ、ニチャニチャしやがって……!
だがそれはそうとこんな作戦を思いつくとは私は天才じゃないか? どうだ富永よ、グウとでも言ってみろ!
「グウ。グウグウ……ZZZ」
寝るな。木枯東風の立てた完璧な作戦に感嘆せんかい!
ところ変わって防犯課会議室。
明石課長と深月技官は現場の状況をモニターで見ていた。
「木枯には人たらしの才能があるな。捜査官としてなかなか使えそうだ」
「同感です」
「だが器が小さすぎるな。スプーンかなにかか?」
「同感です」
「あと、もし娘がいても絶対あいつとの結婚は認めん」
「同感です……ところで今名は?」
今名小夜。
彼女は現場にもおらず、ここ最近内務省でも会った覚えがない。
「あれ、この前言わなかった? しばらく休暇さ。ずっと任務続きだったから規定に従って一週間はお休みよー」
明石課長は伸びをした。
「さあて、ぼつぼつ書類でも片付けるかなー。これでキャシーが仕事に慣れてくれるといいんだが……深月どうした?」
深月は一抹の不安を覚えていた。今名小夜、休暇であるなら何も問題はない。ないのだ、が……
「質問です、今名は作戦を知っていますか?」
「そりゃ一応伝えてあるが、今回は非番だから関係ないと説明したぞ」
「ではどうして……」
深月は生つばを飲み込んだ。
「今名は私に作戦の確認を求めたのでしょう?」
それは一週間ほど前。
深月技官が、夜一人で不良更生作戦の資料を作成していた時。
「深月さあん……」
今名小夜の少し舌足らずな声がした。
「……何用だ。今は手が離せん」
「少しだけ……この写真の男性がキャシーさんの更生対象ですか?」
確認なら富永にでも、と思いつつ深月は写真を見ると頷いた。
「正解だ。いかにも、この人物が今回の標的……」
深月が顔を上げたとき。
既に小夜の姿はなかった。
「幻聴か? いや……」
とにかく今は資料の作成だ。明日までに完成させ、局長の認可をもらわねばならぬ。
「おい、それって……」
明石課長の顔が輝く。
「でかしたぞ深月! 小夜は不良に惚れたに違いない!」
「好機です。今名小夜はおそらく現場にいる……!」
教室内。
キャシーの聖母スキルによって不良どもは着実に更生の兆しを見せつつあった。
「いい子、いい子」
この言葉だけでまじめに勉強をする気になってしまうのである。
キャシーのような女性に隣に座られてやさしく勉強を教えられたら、いかな悪童もふにゃふにゃになるであろう。
「我ながら素晴らしい作戦を立案したものだ」
満足げな東風である。
既に日は傾いている。チャイムが鳴って下校の時刻となった。
「気を付けて帰るのよー」
聖母キャシーの見送りによって悪童どもは校舎を後にする。
落日とともに伸びゆく人影を追うように家路をたどる不良たち。
あの先公はよかったななどと談笑しつつ歩を進める彼らはいまだに気づいていなかった。
そのはるか後方、薄闇の中にひそむ眼光に。
校舎。
ひとまず十分な戦果を得たと得意顔の東風は、意気揚々と明石課長に報告の電話をしていた。
「いやはや、なかなかの傑作でありました……残る二名が苦戦する中、ほんの思い付きではありますが私めの采配によって多少の成果が確認され……」
「あーはいはい」
こいつ自分の戦果を過大に報告するところがあるなあ。報告をうのみにはするまいと思いつつ生返事を繰り返す明石である。
同時刻。
富永常夜はキャシーを探していた。
悪童どもを見送った後、すぐに教室まで戻ってくるかと思っていたのに、いまだに姿が見えない。あの愚かな三文文士は鼻高々で課長に報告してくると職員室の方へ消えていった。だがキャシーは?
「まさかクソガキどもに……」
少し心配になって教室を飛び出した。
紅に染まる廊下を疾走し、最寄りの階段を見つけると、ドミノ倒しのような勢いで駆け下りる。
「今面倒を起こすわけには……」
脳内に叩き込んである校舎のマップを頼りに、下駄箱方面への最短経路を辿る。
その途上。
渡り廊下の中ほどに、くの字になって倒れこむ女性の姿を見て取った。あの緑色のウェーブは間違いない……
「キャシー!」
「と、富永さん……」
「どうしたの⁉ 連中に何かされたの⁉」
「ち、違います……あの子たちはいい子、です……ビリー君のような」
ビリーはもういいよと思いつつ、常夜はキャシーを助け起こす。
「じゃあ誰に」
「わかりません……ただ背後からいきなり……それ以外は……すみません」
それだけ言うとキャシーは気を失った。
「ちょ……聖母さまあああああああああ!」
その晩、保健室の空気は重かった。
「こ、これは……私の責任になると思うか?」
先ほどまでの天狗はどこへやら、不安げに富永に尋ねる東風である。
「さあね……処分は追って下されるでしょうよ」
「ぎゃあああああああああああ! 課長には自分が戦果を挙げたと報告しちゃったよおおおおお!」
「うーん……」
ぶっちゃけこれはまずい。
「キャシいいいいいい起きてくれええええええ私の責任になるんだあああああああああ!」
結局そこかこいつは。絶対人の上に立ってはいけないタイプだわ……
「それより今考えるべきは、キャシーを襲撃した人物の正体……」
襲撃の状況からみてかなりの練度。敵の諜報員だとしたら? いや……
「小夜ちゃん、よねー」
それしかないわ。うん。
木枯東風はセミの抜け殻のようになって突っ伏している。情けないにも程がある。こいつの肝臓はウナギの肝か?
「木枯君起きなさい。小夜ちゃんを探しに行くわよ」
「ふええ……キャシーの傍にいるよおお……」
「幼児退行するな! 小夜ちゃんを捕まえれば局長に怒られなくてすむかもよ」
「ほ、本当か! 神様仏様常夜様ああああ……」
「……」
一応自分が課員としてスカウトした相手なのだがこうも小心者であったとは。むしろよく今まで内務省でやってこれたな。
「あーもー」
また胃痛の種が増えた!
逆巻乱太郎は落ちこぼれであった。中一あたりから授業についていけなくなり、しだいに周囲に対して劣等感を感じるようになり、ついにはグレるに至った。
表向き虚勢を張るも内心焦りを感じていたのだ。そろそろ真面目に勉強をしなければマズい、と。
だが仲間の目も合ってなかなか勉強に向かう機会が得られないでいた。
そんなとき、あの先生が現れた。どこか外部の人で学校関係者ではないらしいが、自分のような人間にも対等に接し、一から勉強を教えてくれた。
「いい子、いい子」
そういわれるとなんだか面映ゆく、もう少しだけ頑張ってみるかとも思えてくるのである。
――今日くらいは久しぶりに宿題をやるか
そんなことを思って玄関のドアを開ける。
だが、人の気配がしない。
「あれ……おやじ……おふくろ……?」
仲が悪かったとはいえ家に帰ったらおかえりとは言ってくれた。なのに。
「おかえりなさい……乱太郎さん」
少年を迎えたのは、見知らぬ女であった。
「ここが逆巻の家ね……」
富永と木枯は二階建ての一戸建て建築の前に立っていた。
先ほど悲鳴が聞こえたのはこの家からだった。そして、夕飯時の時間帯であるにもかかわらずまるで活気が感じられない。家族連れで外出している様子もない。自動車はあるのだから。
「さあ木枯くん……突入して小夜ちゃんを確保してくるのよ」
「いやじゃああああ! 俺が小夜に勝てるかあああああ!」
「放っておいたらあんたの責任になるのよ……? オペレーションマリアを実行したのはあんたなんだから」
課長にうまくいってますと報告したんでしょう? と付け加える。
「……」
うなだれて諦めたように玄関に向かう三文文士である。末端課員というのはかくも哀れなものである。
「富永……もし私が一時間……いや30分たっても戻らなかったら」
「わかってる。戒名は不要、告別式は身内だけだったわね?」
「葬式の準備ではない! 応援を呼んでこいと言っているんだ!」
「忘れてなかったらね」
「断じて忘れるなよ……?」
誰だこいつは?
それが逆巻の偽らざる感想である。
「小夜は嬉しいです……乱太郎さんがご立派になってくれて」
「あ……どうも」
「でもあの女だけは許せません……私の乱太郎さんの隣の席に座って……まるで恋人みたいに」
そんな形相で空を睨まれても困る。
「乱太郎さんも嬉しそうなお顔をされていました……」
まあ確かにぶっちゃけ嬉しかったのは認めるが。男なら誰だって嬉しいだろう!
「恋人ではありませんよね?」
「そりゃまあ」
「ふふ……ですよねえ……よかった……」
何がよかったのかわからないが、恐ろしくて聞く気になれない。
「今日は宿題をなさるのですか?」
「え……まあ」
たまにはやってみるか、くらいの感覚で。
「ふふ……では小夜がお教えしますね……」
どこか近寄りがたい妖艶をまといつつ音もなく逆巻の隣に腰を下ろす。そしてさりげなく肩に寄りかかり、二の腕に手を添える。
問題を解く逆巻の姿を射抜く恍惚と陶酔の眼差しに圧され、喉の奥から水分が枯渇していくのを感じる。
「み、水……」
「はい、お飲み物はこちらに」
「いや、台所までとってくるからいいよ!」
「はあー?」
お水はこちらにあるじゃないですか……と首をかしげる小夜。
「い、いや、今は水の気分じゃないんだ、その……」
そうだ、お茶が飲みたいな、ハハハ淹れてくるよ、君はここで座ってていいからね
席を立ちかけた逆巻の目の前に、銃口……ではなく水筒が突き付けられた。
「お茶です。あなた好みの茶葉、温度、風味……」
「……っ!」
少し香りを嗅いだだけでわかる。完全にこちらの好みを調べられている。普通なら嬉しいはずなのに。
とにかく離れたい。距離を置きたい。ここにいては大変なことになると本能が告げている。
「いやその……俺はティーカップにもこだわるタイプで……細かくて悪いんだけど、やっぱいつものがいいなあ、なんて」
小夜は一瞬きょとんとした顔つきになった。頬に人差し指を当てて首を傾げると、そのあどけなさが残る顔立ちと相まって、まるで森のリスがこちらを見つめているかのようなかわいらしさである。
だが、今名小夜の本性は愛玩用のげっ歯類というよりも、むしろ呪詛用の爬虫類に近いのである。
「……」
頬に人差し指を当て固まったままの姿勢で、数秒が過ぎる。
その間、逆巻はどうしても彼女の眼差しから目を背けることができなかった。万力で顔を固定されたかのように、首を動かそうとしても動かないのである。
彼女の栗色の瞳、アーモンド形の双眸は、逆巻をとらえて離さない。何かを崇拝するような目、憑依されたかのような恍惚。その絞られた瞳の奥底にはちろちろと蛇の舌が覗いているかのようである。
「……ティーカップ。ティーカップ、ティーカップ……ああそうか、そうですよねえ……」
「わわわ悪いね、そういうわけだからちょっと下にとってくるよ……」
そのままダッシュで逃げ去ろう、と思ったその時。
「これですよねえ……?」
逆巻の眼前にゆらゆらといつものティーカップが揺れていた。
なんでてめえが持ってんだ、とは怖くて聞けない逆巻である。
「乱太郎さんのお義母さまが、嫁入り道具にと……えへ……えへへへへへ……」
だめだ。こいつはもうだめだ。
おふくろはこいつにやられたに違いない。親父も、きっと妙な口答えをして始末されたんだ。そうに違いない。
「わ、悪かったよお……許してくれよおおお……」
「乱太郎さんはお勉強がお嫌い……」
「こ、これからは真面目に勉強するからよお……」
「小夜との生活のために? わあ、嬉しい……!」
そうは言ってない。人の発言を曲解するな。
「そうですよねえ……将来のためには今からお勉強をしておきませんと……うふ……うふふふふふ……」
ガタガタと震えながら机に向かうしかない乱太郎であった。
そんな二人の愛の巣(?)に無謀にも潜入するお邪魔虫がいた。
原稿料一束二銭の三文文士、木枯東風である。
「まだバレてない? いや……」
さすがにそれはない。明石課長ですら出し抜かれた諜報員だ。自分なんかに勝てるはずがない。もうとうの昔に潜入は察知されていると考えるべきだ。
「私は邪魔する気はないんだから……」
どうか勘弁してつかあさい、と神に祈りを捧げる東風である。
屋内には難なく入れた。そこから匍匐前進で二階の乱太郎の部屋の入り口付近まで接近する。
そして小型のマイクで室内の様子を探る。
案の定。
「うふ……また計算ミス……あと一回でなでなで……約束ですよお……」
「あれ……あれあれ……この和訳は……」
「こ、これは問題が悪いだろ! こっちでもギリ正解だって……!」
「ふうん……へえ……まあ、しょうがないですねえ……」
あーと一回。あーと一回。とささやく様な声が聞こえてくる。
哀れだな少年。こうならないためにも普段からきちんと勉強をしなければならないのだよ。
東風はマイクのチャネルを切り替え、庭先で待つ富永にコールを入れる。
「はいはーい。まだ息してる?」
「してるよ。状況は予想通りだ」
「少年は?」
「まだ正気を保ってはいるようだ……が、時間の問題だろう」
「確保はしてないの?」
「できるかあああああああああ!」
あっさりと言いやがって!
「応援はまだか……?」
「明石課長と深月技官がもうすぐ到着よ。キャシーは目を覚ましたから安心なさい。私も応援が到着次第突入するわ」
「早くしろおおおおおお!」
その瞬間、ひゅっと風を切り頬をかすめる細長い影。音のした方を見ると、シャーペンが壁にぬかっていた。恐る恐る前を見ると、乱太郎の部屋のドアに数センチほどの穴が開いている。投射速度が速すぎて、ペンの直径ほどの穴しか開かなかったのである。
「……」
シャーペンを確認すると、芯を入れる部分に丸められた紙が封じられているではないか。
付箋ほどの小さな紙の上にびっしりと細かい字が書き詰められている。
いい加減にしてください。また人の恋路を邪魔するんですか? キャシーさんと言い木枯さんといい毎回毎回……(以下略)
……これが最終警告です。10分以内に立ち去らなければ私と乱太郎さんへの宣戦布告とみなします。
――逆巻乱太郎の伴侶(見込)今名小夜
見込にとどめるだけの理性がまだ残っていたとは。もうとっくに名字変わってると思ってた!
「いいから早く応援よこせ……!」
3分たったら離脱しよう、と胸に誓う木枯であった。
内務省治安局防犯課。
明石は頭を抱えていた。
「まさか小夜がキャシーを襲撃するとは……」
「遺憾です……これは任命責任が問われます。軽い脳震盪であったから良かったようなものの……」
今名小夜が同僚を襲撃するとは!
「とにかく小夜を確保しなければ……!」
「同感です、だが今名を止められる人員は……」
「お困りのようだな」
男の声がした。
「久しぶりだな、明石……」
そこには、身長2mはあろうかという壮年の大男が立っていた。腕は丸太のように太く、胸板は鉄板のように厚い。ヒグマに人の皮をかぶせたかのような体躯である。
そしてなによりその服装。
カーキの背広、赤い肩章、金の盾が彩られた制帽。
忘れるはずもない、明石がもともと所属していた組織。
「軍警察……!」