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ヤンデレ諜報員小夜  作者: くまたろう
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第四話 内務省治安局防犯課・下

第四話 内務省治安局防犯課・下



「びえええええええええええええええええええええん‼」

「あーはいはい。泣かないの泣かないの」

 内務省の休憩室にて富永常夜は小夜の肩を撫でていた。

「小夜は……小夜は、もう二度と恋愛なんてしません‼」

 そうしてくれると本当にありがたいのだが。

「小夜は……悪い男の人に騙されていたんです。弄ばれていたんです‼ 常夜さんを傷つけるつもりなんてなかったんです‼」

 ベルが悪い男というのには同意するけれど、騙されていたというのには語弊があるのではないかしら。いくら防犯課でもこの件に関してベルに詐欺罪を適用するのは躊躇われる。そもそも騙すとは何ぞや。

「常夜さん許してええええ何でもしますからああああああ‼」

 まずは始末書を書いてからね。あと、何でもするとか安易に言わない方がいいわよ?

「男の人なんてケダモノです‼ サル以下です‼ 小夜はもう、仕事だけに生きます……」

 その言葉、忘れないでね。本当にお願いだから、その言葉を忘れないでね。


 時を同じくして治安局長の執務室。

「明石君、何だねこの膨大な書類の山は⁉」

 執務室の床が見えない。ついでに天井も見えない。堆く積まれた紙の摩天楼が首都の高層ビル群のようにそびえたっている。前衛的なアーティストの作品か、はたまた公務執行妨害か。

「防犯課諜報員今名小夜の提出した報告書です。先日司法取引に応じた浦見竜一と酒場寅彦の身辺調査の結果です」

「もう少し要約の技術を指導しようね? おじさんこんなの読めないよ」

「浦見に関することはすべて細大漏らさず記載してあります。調査期間中に奴が会話した……失礼、訂正します……奴の視界に入ったあらゆる人物の情報まで完璧に調べ上げられております。局長ご所望の資金源も……」

「なにっ、本当か」

「えーとどこにやったかな……ああ、これです。すべて一円単位で調査済みですよ。使用された紙幣の番号に至るまで詳細に……」

「わかったわかった」

 治安局長は手を振って明石防犯課長の言葉を遮った。

「明石君、君の人を見る目は確かだ。私の負けを認めよう……今名小夜は稀代の諜報員になる素質がある」

 素質があるというよりもうなっている可能性が高いが。しかしさすがにあの性格では責任ある役職は任せられない。

「ご理解いただけて何よりです」

 明石は胸をなでおろした。これで俺の首もつながった。

 もともと今名小夜の登用を強行に主張したのは明石であった。治安局長の慎重論を、皆の前で痛烈に批判した。彼女を部下にくれなければ自分は防犯課長を引き受けないとまで言った。 

「明石君、あいかわらず軍警察時代の腕は鈍っていないようだな」

「……何のことです?」

 明石は首をかしげて見せる。そんな防犯課長の姿を見て治安局長は苦笑する。



 二年前、民主化の波にさらされ軍警察は人員の縮小を余儀なくされた。野党もマスメディアも軍警察の旧時代性を声高に非難し、このような非民主主義的な組織は不要と断じた。

 内務省は批判をかわし切れず、軍警察の権限の縮小と人員の削減を約束した。

 情報将校だった明石が肩を叩かれたのはそんな時である。

「……なぜ私が……」

 成果は残していたはずだ。治安維持のために危険をいとわず仕事をしてきたのに。

「優秀だからだよ……明石君」

 内務大臣は苦渋の表情で言った。

「野党は軍警察をスケープゴートにするつもりだ。今回ばかりはさすがにかわし切れん。歴代内閣が法整備を怠ったことが裏目に出たな……」

 明石は人員整理のリストを見せられた。そこには軍警察を支えてきた優秀な同僚たちの名前がずらりと並んでいた。

「安心したまえ、クビになるわけじゃない。近いうちに防犯課が新設される。選挙が終われば野党の攻撃も終わる。それまでは史料編纂室で身を潜め、その後防犯課に移りなさい」

「防犯……いやしかし自分は」

 バリバリの情報将校だぞ?

「なんだ、防犯などつまらん仕事だと思っているのか」

「いえ、そういうわけでは」

「ははは別に隠さんでもよい。だがまあ楽しみにしておきたまえ。もしかすると軍警察より楽しいかもしれんぞ?」

「……」

 その時はわからなかったが、局長の言葉に嘘はなかった。

 防犯課の権限は強力だった。野党が防犯課を攻撃しないことがまさに、彼らの軍警察叩きが票集めの手段であることを物語っている。カモフラージュのための地域活動は面倒だが、それをさしおいて余りある権限。犯罪組織の内部調査だけが生きがいの明石にはやりがいのある職場であった。災い転じて福をなす、というやつか。

「部下はファイルから好きなのを選んでいいぞ。初期人員は五名前後の予定だ」

 少数精鋭で行くということか。

 明石は頬がにやけるのを抑えることができなかった。

 これだけの権限、しかも部下は好きに選べる‼ そんなら地域活動でも清掃運動でもやってやらあ‼

「俺の理想の諜報部隊……‼」

「防犯課は気に入ったかね」

「感無量であります……‼」

 こんなチャンスはめったにあるものではない。軍警察時代にやり方が過激だとして批判にさらされてきた明石にとって、この防犯課こそは己のキャリアをかけるに値するものであった。

 さっそくファイルを開き、一晩中読み通す。己の経験と勘だけを頼りに、顔写真と経歴を穴が開くほどに読み込んでいく。

 諜報に関して明石の目をごまかせる奴はいない。才能の片鱗はどんな小さな仕事にも現れる。そいつの書いた報告書や論文を一目見れば、素質の有無は一発でわかる。自分で見出した才能を発掘して一から育て上げるほど楽しい仕事はない。自分自身の理想の諜報部隊を自分自身の手で育て上げる、こんなに腕のなる仕事があろうか!


「最高の、最高峰の人員だけを揃えねばならん……」

 机の前で頭を抱える。

 少数精鋭の最強情報部隊。それを自分の手で一から育て、自分の指揮下で働かせる。明石情報将校改め防犯課長は寝ても覚めてもそればかりを考えるようになった。

 技官は決まった。深月悟。通信傍受に関して恐るべき能力を持っていることは確信した。なのに、内務省の技術研究課でつまらん仕事をやらせている……

「……以上が新設される治安局防犯課の説明だ。質問があれば聞こう」

「……疑問だ。なぜ防犯課にそんな権限が付与される?」

 明石は防犯課の設立経緯を説明した。

「納得だ。つまるところ権限を縮小された軍警察の代役か」

「代役じゃない、軍警察を超えてみせる。俺が内務省一の、いやこの国で一番の諜報組織に育てて見せる。だがもし君が入ってくれるなら」

「私が入れば?」

「……世界一。世界一の諜報組織が出来上がる。どうだ、君の研究を私の下で活かしてみないか?」

「……最高だ! あなたについていこう……明石課長」

 ようし‼ こいつは絶対に欲しかったんだ! 



 続いて分析官、富永常夜。彼女の書いた報告書は読んでいるとうんうんと大きく頷きたくなる。独自の切り口を持ちながら論点は明快で、犯罪組織の行動パターンを正確に分析している。こちらが知りたい情報を完璧に整理された図表で説明してくれる。俺の参謀に欲しい!

「……防犯課?」

「そうだ。きっと楽しい仕事ができるぞ。権限は今説明したとおりだ」

「うーん……」

「何か不満かね。一時的に給料が下がるが、君の能力があればすぐに……」

「妙ね。防犯課にそんな権限が……」

「そのことか。私からきちんと説明しよう、実は……」

「軍警察の後継でしょう?」

「……」

「野党は軍警察を叩いて票稼ぎをしている。内務大臣は権限縮小と人員整理を約束してしまった。それで防犯課に権限を移したのね」

「……ご明察」

「この程度は誰でもわかるわ」

「それがなあ、それくらいの情勢分析もできん奴が内務省にはウジャウジャしているのだよ」

 して返答は? と彼女の意思を問う。俺の参謀になれ、富永常夜!

「お断りね」

 え……どうして……

 正直ショックだった。これだけすごい権限があるのなら……

「それだけの権限があれば軍警察は必ず防犯課の仕事を妨害する。私は軍警察に目を付けられたくないもの」

 なかなか抜け目ないな。そして、だからこそ欲しい!

「ここだけの話、今の内務大臣は軍警察を警戒している。むしろ防犯課にいた方が大臣の保護を受けられる」

「私は権力闘争に興味がないの。巻き込まれるのは御免だわ……それに今の内務大臣が将来失脚しないという保証もないしね」

 内務大臣すら内心では見限っているか。ならばいよいよ欲しい!

 富永常夜は腕を組んでつまらなそうな表情をしている。

 野心のあるタイプではない、どちらかというと保身が好きなタイプだ。自分の利益にしか興味がない、ならば……

「君自身の未来のためにも防犯課をおすすめするがね」

「どうして?」

「君の分析通り、今後の内務省は軍警察派対内務大臣・防犯課派で揺れるだろう。軍警察の権限が縮小され防犯課が設立されてしまった以上、これはもはや既定路線だ」

 富永常夜は黙って明石の話を聞いていた。

 ゆえに、と明石は説く。

「どのみち軍警察と防犯課の争いで内務省は二分される。君は『巻き込まれるのは御免だ』などと言うが、内務省にいて巻き込まれない道があるとでも思っているのかね?」

「……」

「不可能さ、そんな道はない。ならば落ち目の軍警察ではなく、強力な権限を持つ防犯課とのパイプを作っても損はないと思うのだがね……」

「……防犯課への異動を希望するわ」

「いいね、君は実に聡明な女性だね」

 握手を交わした後、富永はふと微笑んだ。

「失礼いたしました……実は明石課長のことを試していました」

「試す?」

「課長が内務大臣にいいように操られている間抜けに見えたのです」

「なかなか率直な意見具申だね。正直でよろしい」

「ですがおっしゃる通り……そもそも軍警察と防犯課の衝突は避けられません。内務省にいてそれを逃れる道もありません。権限と内務大臣の肩入れ具合を見る限り絶対に防犯課につくべきだと思っていたのですが、課長が政治の分からないタイプに見えたので」

「ククク……私がバカに見えたわけだ」

「失礼ながら。私の分析は間違えていましたか?」

「私がバカなのは事実さ。諜報活動にしか興味がない仕事バカだ。実は派閥なんて軍警察でも内務大臣でもどっちでもいいんだよね、諜報さえやらせてくれるなら」

「……私の分析は正しかったようね」

「だが安心しなさい、私は今の職場が気に入っている。とてもとても気に入っている……だから政治にだって気を配るさ。その時は君の諫言に耳を傾けるとしようか」

「ちゃんと私の言うことを聞いてくださいね?」

「政治に関してはな。だが仕事に関しては私の命令に従ってもらう」

「もちろんです」

 かくして内務省の曲者二名は手を結んだのである。

 


 さて。

 技官は深月悟。分析官は富永常夜。残るは捜査官と諜報員だが……

「ううー」

 明石は唸っていた。

 めぼしい奴がいない。技官と分析官は最高の人材を揃えた。だが捜査官に気になるやつがいない。これはという奴がいない。

 そして諜報員にも。自分の右腕として活躍してくれそうな奴がいなかった。

「明石君、いい加減に人事を決めてくれないと……」

 局長直々のお叱り。

「申し訳ありません。ですが最高の人材を揃えたいのです。今しばらくのご猶予を……」

「こないだ私が推薦した奴はどうなんだ」

「優秀なのは間違いありませんがそれだけです」

「優秀さ以外の何が欲しいんだ」

 治安局長の質問に明石は一瞬沈黙した。が、やがて


 ――狂気

 と言い放った。


「狂気……」

「技官と分析官には冷静さが要求されます。ですが捜査官と諜報員にはある種の狂気が必要です」

「なぜ」

「執念深さが重要ですから」

「……」

 局長は当惑した様子だったが、明石の目を見つめ、そして視線を外すと

「好きにしろ」

 と言った。

「納得するまで人材を探すといい。ただし通常の業務もしてもらう。地域活動の一環として非行少年の補導をしてもらおうか」

「はっ」

 カモフラージュにも手を抜く気はない明石である。なんせ自分の理想の職場なのだから。

「実はただの非行少年じゃない。司法取引に応じた政治犯の隠し子だ。別に悪質な犯罪をしてるわけじゃない、若者に特有の反抗期さ。だが政治犯の子には追跡調査が義務付けられているんでな」

「はっ」

「まあどのみちカモフラージュだから手軽にやんなさいな。本当は君に任せるような仕事じゃないんだが」

「いかなる仕事であれ手を抜くつもりはありません」

「それでこそ明石君だ。だが一つだけ……」

 治安局長は少し怖い顔をした。

「政情が不安定な時期だ。面倒事を起こすことだけは許さん」

「肝に銘じておきます」




 指定された現場に行き、非行少年の母校の教員と顔合わせ。防犯課の地域貢献をアピールする。どちらかというとこちらの方が主任務である。

「まあすみません……内務省の方にわざわざ」

「いえいえ、これも務めですから……」

 で、追跡。

「はいはいはーい。見つけましたあー」

 繁華街に出たら容易に発見できた。明石にとっては面白くもなんともない仕事である。あとは明日の夕方まで追跡して、問題がなければ「問題なし」で任務完了。軽犯罪でも犯してたらどうしようか。見て見ぬふりはさすがにまずいか。でも面倒事は起こすなと釘を刺されてるしなあ……

 あくびを噛み殺しながら非行少年の後を追う。そろそろお家に帰ってくれないかなあ。いい加減飽きてきたよ。こちとら君が自宅に帰るまではホテルに行けない決まりなの。

 その瞬間、妙な違和感を感じた。


 ――誰だ


 と思わず小声で口走る。

 明石の勘が告げていた。誰かに尾けられている……? この俺が……?


 あたりを見回すが誰もいない。気のせいだよな、と思い少年の尾行を継続する。そうだよ気のせいに決まってる、防犯課の人事に忙しく寝不足なせいだ……

 大体、例の非行少年の身辺調査は済ませてある。父親はいまでは反省し、犯罪からは足を洗っている。その後何らかの組織と接触した形跡はない。だから、奴を尾行する勢力がいるはずはない。いやそれ以前に、この俺に気づかれずに尾行できる奴など


 ……いる


 疑念は確信に変わった。明石は全身に鳥肌が立つのが分かった。その場に立ち止まり雑踏の音に耳をそばだてる。


 ――トントンツー、トントントン、ツー……


 森臼もりうす符号……!

 内務省関連の諜報員同士でしばしば使われる秘密の暗号。数学者の森臼博士が考案したためその名がついている。それを足音で送ってきやがった。

「同僚か? いや……」

 同僚同士がたまたま出くわした時に、互いの力量を試す意味もあって、敬礼代わりに森臼符号を送ることはある(本当は任務以外での使用は禁じられているのだが)。大概はオツカレサンデスとかノミニイコウゼとか他愛もない信号である。尚、明石がかつて同僚に送った挨拶信号の傑作は、チャックアイテルゾである。あれは笑ったね。サケクサイゾと送ったらニンムナリガマンサレタシと帰ってきたこともあった。あれは本当に任務だったのかね?

 でもこれは。

「友好的な挨拶じゃないみたいだねえ……」

 脳内にて符号を変換。飲みのお誘いでも身だしなみの注意喚起でもないようだ。

 トン、トン。ツーーートン、トンツー…… 

「タ……ダ……」


 ――タダチニソノバヲサレ


「……」

 緊張で身体が震える。冷や汗を流しながらも明石はこの状況をどこか楽しんでいた。そうだよこれこれ‼ こういうのが楽しみで俺はこの仕事を選んだんだ! 給料安いけど! (基本給は安いが危険手当を含めるとそこまで悪くはない)

 こんなに腕の立つ相手は滅多にいない。遊びたいところだが局長から面倒を起こすなと厳命されている。時間があれば互いに尾行の腕比べとしゃれこみたいところ……なんだが……ね……


「あれ……俺の負けじゃね?」

 向こうからこちらに信号を送ったということは、向こうはこちらに気づいていたということだ。明石が欠伸をしながら非行少年を尾行していた間に。明石は、奴に背後を取られたのだ。

 悔しさと恐怖のあまり歯を食いしばる。もしかして今日が俺の命日か? そんな馬鹿な……

 明石の靴は本能的に地面を叩いていた。傍から見ると突然街中でステップダンスの練習を始めたようで不気味である。だが信号を送らずにはいられない。自分の背後を取った未知の相手に……


 ――ワレニテキイナシ。クリカエスワレニテキイナシ。

 ――キカンノメイレイニシタガフ。アンゼンナテッタイヲホショウセヨ

 ――ワレハニンムヲホウキセリ。アンゼンヲヤクソクセヨ……


 返事は来ない。これまでか、と観念したその時。


 ――キカンノイシヲカクニンセリ。タダチニテッタイセヨ


 命は助かったようだ。

 明石はその場に立ち尽くした。はっきり言ってこの相手とこれ以上関係したくはない。慌てて逃げ出そうとするも、情報将校の意地が勝った。せめてこいつの名前と目的を知りたい……‼


 ――キカンノシメイトモクテキヲコタエヨ。


 答えてくれ……!


 ――シメイハナノラズ。モクテキハカレノアイナリ


 カレノアイ? 新しい兵器か何かか?


 

「任務は失敗致しました。未知の諜報員と接触したためです」

「もういい、この件について咎める気はない。むしろよく面倒事を起こさなかった……」

「面目次第もありません……」

 その晩の治安局長への定時報告は気が重かった。

 こんな簡単な任務すら満足にこなせないとは!

「それで……奴の所属は」

「わかりません」

「敵国かはたまた軍警察か……」

「防犯課を潰しに来たのかもしれません」

「ありうるな」

 しかし敵国はともかく軍警察の腕利きはみな人員整理で閑職に追いやられた。軍警察に残っているのは日和見主義の無能ばかりだ……と思っていたがあれほどの諜報員を隠し持っていたとすると。

 いやしかしそんなことが可能か⁉ 軍警察出身の俺が知らない諜報員……


 局長からはホテルにて待機を命じられていた。明石もそれに従う気でいた。救援は明日の朝にやってくる。それまで最大限の警戒を維持したままその場で待機せよ。フロントからの連絡にも応じてはならない……当たり前だ、身の安全を考えれば。だがどうしても。どうしても気になる。防犯課が潰されるかもしれないことなどもはやどうでもよくなっていた。防犯課よりも奴だ。

「俺の防犯課が世界を獲るなら」

 と明石は考えた。

「どのみち奴に勝たねばならない……‼」

 気づけばホテルを抜け出し、非行少年の自宅に向かって駆け出していた。

 大丈夫だ。あの時は気を抜いていたから不覚を取っただけだ。初めから最大限の注意で当たっていれば……!

 だが奴は任務の放棄を命じた。明石はそれを受け入れた。にもかかわらず少年の自宅に赴くのは明らかに約束を破っている。何をされても文句は言えない……

「かまわん、なるようになるさ……」

 どうせ諜報しかできない人間だ。ここで負けるなら潔く負ければいい。


 明石は耳を澄ませた。今まで培ってきたあらゆる技術を使って少年の自宅を見張っている人物を探す。だが、見つけられない。考えうる限りの監視ポイントを総当たりしたのに……

「どこだ……」

 もう向こうは俺に気づいているのか。気づいているんだろうな。そうして高みの見物ってわけか。クソっ‼

「どこにもいない……?」

 奴が少年に用があったのは間違いない。明石に任務の放棄を命じたのだから。ならば少年宅の近くにいるはずなのに。

「まさか……」

 もう既に任務は終わっている? だとしたらその任務の内容は? 単なる個人情報の収集であればよいが、まさか……

 明石は覚悟を決めて少年宅の庭に侵入した。少年の保護を名目とすれば局長も納得してくれるはず。そうさ、きっと……

 おそるおそる窓に近づきリビングを覗き込む。すると……

「どうして小夜のお料理を召し上がって下さらないんですかあ?」

「ひいいいっ! 頂きます頂きます」

「うふふ。うれしい……小夜のお料理おいしいですかあ?」

「ははははい! おいしいですおいしいです」

「お義母さまのお料理とどっちがおいしいですかあ?」

「……」

「答えてくださいよ、ねえ……」


 明石は窓からリビングを覗き込み立ち尽くした。傍から見ると変質者である。

「何あれ……」

 非行少年の隣に腰を下ろし、手料理を食べさせている少女がいた。小柄で黒のショートヘアー。怪しい光を湛えた瞳。全体的にあどけない印象を与えるが、どことなく近づいてはいけない香りがする。すなわち、たちのぼる狂気。

 あんなのこいつの家族にいたっけ? 恋人がいるって情報も掴んではいないが。

 少女は少年の肩に身を寄せ、腕をとんとんと指で叩き始めた。

「小夜は……あなたの二の腕が好きです……」

「へ……へへ……どうも……」

「ほかの人に見せたくありません……独り占めしたいの……」

 トントンツー……

 あ、指で叩いてるの森臼信号だ。俺が来たことに気づいてたんだな。


 ――ナニミテルサッサトキエロ

 ――コノヒトハワタサナイ

 ――ストーカーデスカ。ケイサツヲヨビマスヨ


 乙女の恋路を邪魔してごめんねー……ってあれが例の諜報員か‼ この俺を出し抜いた諜報員か‼

 明石はふうううと深いため息をつき……彼女に信号を送った。


 ――ストーカーハナンジナリ。タイホサレルノハナンジナリ

 

 ――イミガワカラナイ。セツメイヲヨウキュウス


 ――セツメイハショニテオコナフ。ドウコウヲヨウキュウス



「びええええええええええええええええええええん‼」

 今名小夜は明石の手配したホテルの一室で泣き崩れていた。


「おいこいつか……明石君を出し抜いたのは」

「恥ずかしながらそうです……局長」

 未知の諜報員……今名小夜と遭遇後、明石は警察を呼んだ。すぐに治安局長も駆け付け、慎重な取り調べが行われた。取調べを担当したのは富永常夜分析官。女性のことは女性に任せようとの配慮からである。

「小夜が何をしたっていうんですかあああ! 内務省は人の恋路を邪魔するんですかああああああ!」

「小夜ちゃん……私たちはあなたの敵じゃないのよ」

 引きつった笑みを浮かべながら常夜は粘り強く説得を続ける。

「内務省のアホ! 民衆の敵! 全体主義者! 税金泥棒! ヘンタイ! ストーカー! 変質者! キモイキモイキモイキモイ」

 前半はマスコミからよく受ける批判だが、後半は完全に自己紹介じゃないかなあ。

「内務省に彼氏奪われたあああ! 運命の人だったのにいいいい! 恋愛の自由がある国に亡命してやるううう‼」

「落ち着いて小夜ちゃん。この国の憲法でも婚姻の自由は認められています。両名の合意があれば誰でも結婚は可能よ」

「嘘だああああ、じゃあなんで小夜はあの人と結婚できないの⁉ 憲法のせいじゃないですかああああ」

 あなたが結婚できないのは相手との合意が形成されていないからです。憲法のせいではありません。どんなキワモノ議員もそんな理由で憲法を批判したことはありません。

「お願い、あの人に会わせて……」

「ダメです」

「家族なんだから面会の権利があるでしょおおおお違法捜査! 人権侵害! 中世並みの魔女裁判!」

「小夜ちゃん、婚姻届を提出しなければ法律上の家族にはなれないのよ……」

「事実上家族じゃないですかああああ事実婚ですううう形式主義官僚主義前例踏襲主義!」

 内務省批判の言葉選びが妙にインテリっぽいのがむかつくな。

「事実婚の認定には最低3か月にわたる継続的な同棲の証拠が……」

「3か月! 小夜は半年前からあの人と一緒でしたあああ」

「嘘をつけ。お前が家に上がり込んだのは一週間前だと奴は言ってる」

「ほんとですうううずっと家にいたんですううう押し入れに潜んでたんですうう!」

 あ、これたぶん本当だ。押し入れを調べたら証拠が出てくるかも。

「事実婚じゃないですかあああ会わせてくださいよおおお」  

「私たちじゃなくて向こうが面会拒否をしてるのよ……」

 ば、お前……

 明石は思わず常夜を制止するも時すでに遅し。常夜も地雷を踏んだことに気づいた。

「あの人が……小夜を拒絶……?」

 どう顔の筋肉を動かしたらああいう表情になるのかね。ピカソの絵じゃないんだから。

「あなたたちが……あることないこと吹き込んで……」

 吹き込んでません。規定に基づき事実の説明は致しました。少年は説明を受ける前から面会拒否を希望しました。

「会わせてよおおおお誤解だからああああ話せばわかってもらえるからああああ‼」

 面会して対話したらかえって溝が深まると思われます。また、我々の見る限り、少年は落ち着いた受け答えをしており、事実関係を正確に把握している印象を受けました。ただしあなたの名前を出すと少々言動に混乱が見られました。

 治安局長がドアの方に忍び足ですりよるのを常夜は見逃さなかった。

「じゃあ、私はそろそろ。明石君、富永君、後のことは頼んだぞ……」

「局長、内務省まで自分が護衛いたします」

「待ってください! 私が護衛します!」

 明石はものすごい形相になって「これはお前の仕事だ」と言った。

「職務を放棄することは許さん。お前が引き受けたのだ」

「て、てめ……小夜に遭遇して逃げ出してきたくせに……!」

 だんまりを決め込む明石に、治安局長が加勢する。

「うん、明石君の言うとおりだ。それに、女性の対応は女性に任せるのが一番良い」

「男衆ではわからぬことも多いですからな」

「女にもわかりません‼」

「それじゃあ後のことはよろしくねええええええ!」

「富永、お前は優秀な部下だった……一緒に働けて嬉しかったぜえええええ!」

「ま、待って、後生よ……」

 局長と明石課長は消えてしまった。これぞ内務省名物トカゲのしっぽ切り。いつか今日の出来事をマスコミにリークしてやる……!

 一人取り残された富永の背後に悪霊の影が忍び寄る。

「常夜さん……あなたですか……小夜の運命の人をたぶらかしたのは……」

「違うのよおおおお‼」

 誤解ですらない一方的な思い込みによる判決。魔女裁判をやってるのはどっちだろう。   

 この時以降、今名小夜のメンタルケアは慣習的に富永常夜の仕事となった。常夜はこの仕事を安請負いしたことを生涯後悔したそうである。



「……確実だ。今名小夜の能力は結果が示している」

 深月悟技官の解析結果に耳を傾ける局長、明石、富永。

「驚愕だ。猛禽類並みの視力、イルカ並みの聴力、オオカミ並みの嗅覚、瞬間記憶能力、顔識別能力。走らせても蚊の羽音並みの音しかしない。またさいころを振らせてもなぜか統計的に有意な分布のばらつきが見られる。つまり、確率すら操るということだ」

 怖すぎるだろ。特に最後のは人間じゃねえ。

「それで一番肝心な点だが……誰かに惚れるとどうなる」

「不明だ。様々な方法で何度も試しているが惚れてくれない」

「そこが分からなきゃどうしようもないじゃない‼」

 昨晩、命からがら小夜の下を逃げ延びて内務省に戻った常夜に、明石課長はとんでもないことを言ったのだ。


 ――今名小夜を防犯課の諜報員としてスカウトする


「ふ・ざ・け・る・な」

「ふざけてなどいない。彼女の能力は君も見ただろう。俺ですら気づけない尾行能力、探査能力……そして何より俺が諜報員に一番求める素質……すなわち狂気の執念‼」

 最高の諜報員に育てて見せる、と息巻く明石課長。

「あの……私、異動願を提出しても……」

「却下。君は小夜のサポート役だ。分析屋の力を小夜のために活かしてみせろ。それに、昨日の今日で異動願は印象悪いぞ?」

「く……分かりました。ですが条件があります……」


 常夜の出した条件は採用の前に深月技官のテストを受けさせること。そこで彼女の能力にいちゃもんをつけてやめさせようとしたのだが。


「最高のスコアを叩き出しやがったわね……」

「これで決まりだな。今名小夜は明日から俺たちの同僚だ」

「乾杯だ! これほど興味深い人間はいない! 論文のネタの宝庫だ……」

 深月、てめーは研究目当てかい。

「待って……せめて恋愛時にどうなるか調査してから……」

「不要だ。どうせ任務に出せば誰かに惚れる。データはその時に手に入れればよい」

 技官はそれでいいかもしれないが分析官の気持ちも考えろ!



「あーそれと……明石君」

「はい、何でしょう局長」

「諜報員は今名君にするとして……捜査官はどうするのかね?」

「あー……」

 ぶっちゃけ小夜という最強レベルの逸材を手に入れたのだから捜査官のことは忘れていた。なんかもう、色々ありすぎて選考が面倒になった。

「富永、捜査官はお前が決めていいぞ。小夜と一緒に現場に出る相手はお前が選べ」

 富永に譲ることにした。

 実を言うと、小夜の登用の件で富永と少々険悪な関係に陥っていたのだ。明石と深月は賛成派、富永は反対派。ならば富永の機嫌を直すためにも彼女に捜査官は選ばせてやろうではないか。富永とて失うのは惜しい人材なのだから、関係を悪くしたくはない。

「そうですねえ……」

 富永はファイルをパラパラとめくった。

「誰でもいいぞ。能力で選ぶもよし、好みのタイプを選ぶもよし……」

「この人」

 富永はある人物のページを開いた。

「むむ……木枯、東風……? 聞かない名前だな」

「同感です。能力的には中の上。若手の中堅どころといった感じですか」

「どうしてこいつにしたんだ。お前こういうのがタイプか」

「セクハラですよ」

「いや失礼失礼。しかし、まじめな話、どうして……?」

 富永は一瞬口をつぐむも、やがてはっきりとした声で言った。

「一番まともそうだから」

「あー……」

 身に詰まされるものがあるのか、明石と深月は富永の選択を尊重してくれた。


 富永常夜が木枯東風を捜査官に推薦したのには理由がある。

 自分と同じタイプに見えたからだ。

 富永の考えでは、人間は大きく二つに分けられる。思想をもった人間と、思想のない人間。

 内務省はやはりどちらかというと国家はかくあるべしという独自の思想をもった奴が多い。常夜はその手の手合いが苦手だった。知らねえよてめえの個人的な思想に私を巻き込むなよと思ってしまうのだ。

 実は、防犯課に移ったのはそれが理由でもある。

 明石は無思想な男に見えた。諜報さえさせてもらえば軍警察でも防犯課でもいいのだと。それが彼のスタンスだった。

 深月も似ている。自分の研究が何より大切で、他のことには興味がないタイプだ。

 こういう人々とは付き合いやすい。

 だが思想家は他人にあらゆることを要求する。崇高な理想のために身を捧げることを強制する。

 思想とは偉い人が他人に命令を下すために編み出したカモフラージュであろうというのが常夜の考えである。好き嫌いがあるのはよいが、思想家はいただけない。

 無思想であること。

 これが富永が捜査官に課した第一条件だ。次に、癖が少ないこと。

 この条件に合致しそうな人物のうちで一番優秀なのを取ろうと思った。だが内務省の上位層はみな何らかの意味で思想家である。ナントカ主義にかぶれてみたり、カントカ史観を信奉していたりする。

 所詮この世には実証可能な科学的事実と、議会を通過した法律の束と、個々人の趣味選好の違いしかないのである。常夜はそう信じていたので、それ以上の大きなものに興味がないのだ。歴史観と言われても困るではないか。歴史とは史料から推定可能な個々の事実の集まりにすぎない。なのにどうしてそれ以上のものが必要なのか。主義と言われても困るではないか。法律でもないのにどうして人を縛ろうとするのか。

 富永は自分自身の経験から、なんとなく思想家と無思想人を見分けることができるようになっていた。それで、それなりに仕事のできる人たちの中から、思想のないタイプを同僚に迎えたいと思ったのである。


 木枯東風にはピンときた。

 こいつは必要な時にはコウモリになれるタイプだ。明石が軍警察から防犯課に移ったように、常夜が内務大臣と軍警察の値踏みをしたように、情勢が変わればさらりと姿を変えることができる。

 つまるところ、天をもたない。

 天をもたないとはどういうことか。それはつまり、己の直接・間接の利害関係を超えたいかなる崇高な価値も原理的に認めないということである。徹底的に地上的な人間。

 それなりに仕事はできるようだし、特に思想信条もなさそうだ。それなら手元に欲しい。バランサー的な役割を期待して。

 この木枯東風という男を捜査官に選んだことも常夜は後に後悔するのだが、それはまた別の話である。


「局長、明石課長より人事案です」

 秘書が治安局長のもとにやってくる。局長は案を受け取ると、中身を確認した。


 内務省治安局防犯課人事案


 同課課長明石晩山は以下の人事案を内務大臣ならびに治安局長へ提出するものである。

 課長 明石晩山

 分析官 富永常夜

 技官 深月悟

 捜査官 木枯東風

 諜報員 今名小夜


 なお、諜報員今名小夜は民間よりスカウトした。必要な書類は後日提出する。

 以上、よろしければ承認願います。


「はい、承認……と」

 局長はハンコを押した。

 かくして内務省治安局防犯課は活動を開始した。

 彼らの軌跡は功罪相半ばし、マスコミや政治評論家による評価もなかなか定まらない。ある者は最高峰の諜報部隊と称え、ある者はただの犯罪者集団と非難する。創設時に明石が書いた人事案を先見の明に満ちた偉大な歴史的文書と評価する向きもあれば、このふざけた人事案のせいで内務省の輝かしい歴史に汚点が残されたと酷評する向きもある。この物語は彼らの活躍と不始末(どちらかというとこちらの方が多い)をなるべく評価を交えず、中立的に記述しようと試みたものである。



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