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ヤンデレ諜報員小夜  作者: くまたろう
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第三話 内務省治安局防犯課・上

第三話 内務省治安局防犯課・上


「どんな人間も自分を理解し愛してくれる人間が欲しいと思うものよ」

 内務省治安局防犯課会議室。

 同課分析官の富永常夜が口を開いた。永久常なる夜勤の富永である。

「でも……そんな人間が本当に現れたら恐ろしいことになる。多くの人間はその恐怖を知らない」

「同感だ。正常な人間はそんな状況に耐えられない。羞恥心で死にたくなるはずだ」

 富永に賛成したのは同課技官深月悟。月が深くなるまで働く覚悟の深月。

「秘密や隠し事を持つことすら許されず、まともな話が通じない。何をしても嫌ってもらえず、ひたすら傍らで尽くされる。信仰に近い愛の恐ろしさ、か……」

 肩をすくめてみせたのは課長の明石晩山。明け方から晩までさざれ石が山になるまで働く明石課長。

 三人合わせて防犯課ブラック夜勤組!

「ベルが生きてるといいですね……」

 最後に口を開いた男の名は木枯東風。防犯課捜査官。

 名前からしてブラックな防犯課の面々の中、唯一ホワイトな人間である。せいぜい風が吹いて木が枯れる程度なのに、なぜか防犯課に配属された悲劇。

「今名から連絡は?」

「ありません」

 明石課長の問いに技官の深月が即答した。

 普通なら今名小夜諜報員の身を案じ、救援を送るところである。普通なら。

「心配なのはベルの身柄だ」

 明石課長の言葉に一同同意。

「同感です、廃人にでもなられたら裁判での証言に証拠能力がなくなります」

「心神喪失で無罪になるかもしれないわ」

「計画していた司法取引もおじゃんですね」

 一同、ため息。

「だから私は小夜ちゃんの派遣には反対だったのよ……」

「遺憾だ、小笠原小夜の諜報能力は信頼できる」

「諜報能力はね。でもそれ以外が……」

「それ以外の点に問題があることには同感だ。だがそこを補う方法は存在するはずだ」

 富永と深月の論争が始まった。

 東風は黙っていた。

 どちらかというと富永の肩を持ちたいが、彼女とは少々折り合いが悪いので黙っておくことにしたのだ。それに、沈思黙考をしているふりをすれば威厳ある聡明な男と思われるかもしれない……

「木枯、お前はどう思う」

「ふぇっ‼」

「君の意見を聞きたい」

「いや……」

 ブラック夜勤組の視線が木枯に注がれた。

  


 木枯東風というのは妙な男であった。

 一言で言うと風見鶏。主義や信念が存在しないのである。

 好き嫌いは結構激しい方である。が、主義や信念というものがない。

 しいていえば、主義や信念は利益の問題だと考えている。

 信念や主義の相違とはすなわち利害か趣向の相違に過ぎない。だから富永と深月の論争に興味がわかない。後から勝った方につけばよいかと思っている。

 省庁にありがちな派閥争い、政治論争も東風は勝ちそうな方につく気でいた。保守派が勝とうと革新派が勝とうと捜査官の仕事内容に大した差はない。もちろんどちらが勝つかによってその後の国の在り方は大きく変わるだろう。だが究極を言えば国の未来などどうなってもよろしい。自分が生きている間だけ財政破綻をせずに持ってくれればよいのである。最近はそれすら怪しいようだが、そこを何とかするのは財務省の仕事である。

 

  

 今名小夜が諜報員として優秀か否か。それを判定するのは自分ではない。課長が決めればよいことである。

 もし東風が課長だったら小夜は外しただろう。面倒を起こされて任命責任を追及されるのが嫌だからだ。だが明石は成果を求めるタイプだし、若者は少々やりすぎるくらいがよいと思っている節がある。

 東風は自分の給料さえ確保されれば仕事の成果などあってもなくてもよいと考えている。だが成果を上げねば給料が上がらない。小夜を使うかどうかは状況によるとしか言えない。他に人員がいなければ小夜を使うほかなくなる。どうしても通常の諜報員では追跡できない相手が現れたら、この場合も使うほかはない。だがそれ以外の時は微妙である。そこは戦略の問題である。


 だが意見表明としては小夜を支持した方がよいかもしれないと思った。将来的に彼女が必要になる時が来るとも限らないし、ならば少々危険でも使って悪いことはない。どのみち責任は課長がとるのだ。


「現時点では彼女に仕事を任せても問題はないかと」

 そう答えた。


 明石課長は木枯の言葉を聞くと、皆の方を見渡して言った。


「引き続き標的の居場所を捜索しろ。木枯と富永は現地付近を回れ。深月は通信の解析」

 うぃす、と疲れの抜けない返事が返る。

 

 防犯課は今まで何度も重要指名手配犯や犯罪組織の検挙に成功してきた。あらゆる反政府組織の内情を調べ上げ、選挙の直前、支持率低迷時など、政治的に重要なタイミングで彼らをお縄にかける。情報が得られるなら司法取引も担当する。

 内務省内には昼の軍警、夜の防犯という言葉がある。

 軍警察は日勤が多く、防犯課は夜勤が多いという勤務時間帯の問題もあるが、真に意味するところはもう少しひねこびている。

 軍警察はいわばわかりやすい国家正義の象徴として、パレードや式典に参加するのが務めである。民衆を畏怖・崇敬させ国威を発揚することを主任務としている。その反面、親しみやすさをアピールし、野党の批判を回避するため、権限は意外なほどに抑えられている。

 他国の政治学者は我が国の軍警察関連法規を読んで仰天した。こんなに権限を抑えられては取り締まりなどできっこない‼

 すかさず内務大臣が「わが内務省の民主主義尊重の証であります」と応じる。するとかの政治学者は母国に帰り、「あの国の軍警察はかなり民主主義的な組織だ」と触れ回ってくれる。


 もちろん、この話には裏がある。

 軍警察は歴史的に悪しき国家権力のイメージがつきまとっているため、どのみち強力な権限を与えることはできなかったのだ。そんなことをすれば野党の総批判を食らって支持率は低迷し、時の政権が吹っ飛ぶ。

 議会政治のもと、軍警察は手足を縛られたのだ。彼らはもはや顔役の仕事しかできなくなった。

 そこで、彼らが担当していた仕事を行う別の組織が必要となった。

 それが内務省治安局防犯課である。

「地域の安全は毎日の防犯から」「みんなで守ろう明るいくらし」をスローガンに、さりげなく新設されたこの組織。一見無害で学校の風紀委員みたいなものに見えるが、付与された権限を見れば皆震え上がるであろう。

「この権限は……もはやかつての軍警察ではありませんか」

 新設防犯課の課長に任命された明石晩山は当惑した。

「批判を食らうことが必至では」

「どうせ条文まで調べる物好きはいないよ。いてもメディア操作でかき消せるしね」

 内務大臣は肩をすくめた。

「国民の目が軍警察に向いてる隙に、防犯課に諜報をやらせる……昼の軍警、夜の防犯ってね」

「与党はあまりにも野党に譲歩していた……何か裏があると踏んでいましたが」

「ご明察、それが防犯課さ。安心なさいな、野党の連中が防犯課を表立って非難することはない。もう取引は済んでるんだから」

「と申されますと」

「野党は票が欲しいだけさ。軍警察を叩けば人気が出るからやってるだけで、本当はこの国に諜報機関が不可欠であることは知っている。叩きすぎて治安が悪化したら今度は野党が非難される……だから防犯課については見て見ぬふりをする」

 内務大臣はふうーと深いため息をついた。

「軍警察の反発は?」

「もちろん来るさ。だがまあ、お前が成果を出す限り、私が守ってやるから安心しな」

「……」

「実際……軍警察はちと大きすぎる。そろそろ叩いておかないと内務大臣の地位を奪われかねないからねえ」

「結局そこですか」

「おうよ。私はまだまだ引退する気はないしねえ」

 つまるところ防犯課は内務大臣の個人的野心と政治的必要から創設された鬼子なのである。

 ……こんな組織だからこそ、小夜のようなタイプでもやっていけるのかもしれない。 

 

 

 今回の任務の始まりを思い出す。


 

「これが今回のターゲットだ」

 明石課長は若い男の顔写真を取り出した。

「コードネームはベル。状況的に見て複数の犯罪組織とつながりがあるのは間違いない。だが物証がない」

 明石は皆の顔を見る。

「そこで防犯課にお鉢が回ってきたってわけだ。目的は奴の違法行為の物証の確保、関連組織の資金源の調査。司法取引に応じさせてもいいぞ」

 お前得意だろ、と木枯の方を見る。

「いつも通り現地調査は富永、木枯、今名。深月は通信傍受」

「……ラジャー」

「さっそく仕事にかかれ。成功したらボーナスをはずむと局長が仰っていたぞ」

「ラジャー‼」

 

 現地調査組の三人は公用車に乗って治安局を出立した。

 運転は木枯、助手席に今名、後部座席に富永。この席順は誰が決めたものでもないがなんとなく決まっている。木枯は運転が得意な方だし、頭脳派の富永は資料の読み込みに忙しいため後部座席。パソコンと、ファイルの山に囲まれている。小夜が助手席なのは、運転を任せるのは少々(正確にはかなり)不安なのと、得意の探知能力を活かすためには前の席に座らせた方がよいからだ。

「そろそろ目撃情報があった場所だ。ひとまず車で地域を一周する……」

「木枯君、カモ忘れてる」

「あー。はいはい」

 カモは嫌いなんだよなあ……

 キーンと嫌な音がして、おばちゃんの声がマイクから放送される。

「えー、地域の皆様。国民の皆様。地域の安全は毎日の防犯から。みんなで守ろう明るいくらし。治安局防犯課。治安局防犯課は日々皆様の安全を守っております……」

 カモフラージュ放送。これだけは嫌なんだよなあ。

 ちなみに防犯課の公用車は選挙カーじみたバンである。普通内務省の職員なら黒塗りのセダンで移動するところなのだが、無用な警戒を与えないようこの車なのである。

 普段仕事に意見を述べない木枯もこればかりは課長に抗議したことがある。

「いくらなんでもダサすぎませんか」

「仕方ないだろ。黒塗りの車じゃ警戒される」

「せめてあのマイクは外しませんか」

「絶対に外せないね。放送に使うんだから」

「……」


 富永はどう思う。この放送。

「……」

 頂けないよなー。

「ぶっちゃけ恥ずかしいわ」

 ですよねー。


「どうだ小夜。何か見つかったか」 

 決まりの悪さをそらすため小夜に声をかける。これも務めと思えば何のその、哀れな末端職員は抵抗する術を持たない。

「勘でいいぞ。どっちに進めばいいと思う」

「わかりませんよう……勘じゃ無理ですって」

「奴の写真を見ろ」

「無理ですってえ……」

「いいから見ろ!」

「ひいっ‼ 見ます見ます見ますからあ……」

 凄腕の諜報員のくせに普段は気弱で引っ込み思案なのである。後部座席の富永が小夜にファイルを渡す。

「赤の付箋があるところ。全部1年以内の写真よ」

「うう……」

 小夜はファイルを開きベルの写真を見た。

「どうだ、何か思うところはないか」

「ありませんよ……特には」

「もっとよく見ろ。瞳とか口元とか指先とか」

「そんなのでわかるわけ……」

「何かしら感じるものはないか」

「もしかしてセクハラですかああ……課長に言いつけ」

 そこで小夜の動きがぴたりと止まった。

 小さな肩がプルプルと震える。とくんとくんと高鳴る鼓動。視線が一点にくぎ付けになり、息遣いも荒くなる。

「何か感じないか……直感とか雰囲気とか、その、う、運命、とか……」

 木枯が運命といったところで後部座席の常夜が吹き出した。こいついつか殺す‼ 俺はまじめに仕事してんだぞ‼

「運命……?」

「そ、そう。う、運命……」

「木枯さんも、運命があると思いますか……?」

 んなこと俺に聞かないでよ。恥ずかしいから。

「あるわよ小夜ちゃん‼ 運命の相手っていると思うわ‼」

 背後から常夜が小夜の肩を叩く。

「富永さんもそう思いますか……小夜は、運命の男の人を見つけたかもしれません……」

 あっ、そう。そりゃよかったね。俺はもうお腹いっぱいだよ。

「本当の恋ってあると思うわ。木枯君は運命の相手に振られたことがあるから黙ってるだけよ」

「やっぱり……木枯さんなんかに本当の恋はできませんよねえ……」

 お前ら聞こえてるからな。てめえらの方がよっぽどセクハラだからな。あと小夜ちゃん、普段は健気でかわいらしいのに何で恋愛が絡むとそんなに口が悪いの。お兄さん泣いちゃうよ?

「小夜は……この人のことが知りたいです。この人のすべてが知りたいの……」

 ……これだ。これぞ内務省治安局防犯課が誇る……|(?)

「この人は、小夜の運命の人です‼ この恋、死んでもものにしてみせます‼」

 ヤンデレ諜報員今名小夜‼




 今名小夜がベルのアジトに乗り込んできて10日がたった。いまだに内務省が来る気配はない。ということはハニートラップではない。つまり、この女は本当に俺に……こ、恋をしているのだ。

「テレビが見たい。頼むから、テレビを見せてくれ」

「はいどうぞ竜一さん」

「見てもいいのか」

「ええどうぞ」

 どことなく狂気を感じさせる笑みを顔に張り付けて小夜はリモコンを渡した。いくらなんでも間が持たない。質問|(正確には尋問)と愛情の確認|(強制自白に近い)と信仰告白|(もはや愛の告白を通り越している)の無限ループである。息が詰まる。

 テレビをつけている間だけは息ができるかもと思いスイッチをつける。一瞬、画面が映り……そして消えた。

「なんで!」

「ほかの女性が映る番組はだめです」

 やっぱりね。分かってたけどね。

「どうしてもテレビをご覧になりたいのですか? 小夜ではなく? なんでなんでなんで」

 今や確信できる。

 ハニートラップの方がよかった。こんなのに惚れられるくらいならハニートラップの方がマシだった‼

「内務省は何してるんだあああ! はよ逆探知でも違法捜査でもせんかい‼ 早く逮捕してくれよおおお‼」

「小夜は竜一さんを裏切りません。竜一さんとの約束……小夜は決して破りません」

「命令だあああ! 内務省の連中にアジトの場所を伝えろおおおお!」

「え……でもそれじゃ竜一さんが」

「俺は自由に生きたいだけじゃあああ! 仕事がうまくいかなくてやけになって組織に入ったんだよお! 悪かったよお、何でもするからよお!」

「何でも……では」

 小夜の顔がぱあっと輝く。

「私と結婚」

「それ以外でだ‼」

「私と挙式?」

「同じじゃねえか!」

「私と同棲」

「今と変わらん!」

「私と司法取引はどうかしら?」

 別の女の声が割り込んできた。

「富永常夜。内務省治安局防犯課分析官。よろしくね竜一君」

 小夜とは違い背の高い女性である。小夜はショートヘアーだがこちらはセミロング。全体的に冷ややかな印象でいかにもやり手のキャリアウーマンといった感じがする。

「小夜じゃなくて……常夜と……司法取引してほしいな……」

 指をつんつんさせながら言われても。意外と茶目っ気があるようだ。

 まあそんなことはどうでもよい。

「するするするする! 司法取引する! 何でも証言するよさせてくださいお願いします‼」

「あらいい子……でも証言しても刑務所には入ってもらうわよ?」

「なんだよそれ‼ 証言したら減刑じゃねえのかよ!」

「もちろん減刑よ。ここでその子と暮らすのと刑務所で看守と暮らすの、どっちが自由だと思ってるの?」

 ベルは凍り付いた。

「刑務所……です……」

「はい、契約成立ね」

 ここにサインして、と言われるがままにペンを走らせる。

「小夜ちゃん、お疲れ様。そろそろ……行きましょ……う……」

 今度は常夜が凍り付く番だった。

 小夜の背後に悪霊が蠢いていたためである。

「何ですか……常夜さん……」

「ちょっと小夜ちゃん……?」

 先ほどまでの余裕ある態度はどこへやら、富永常夜は表情を引きつらせていた。身体が小刻みに震えている。

「何なんですか……私の恋を応援してくれたのに……小夜は……竜一さんは……私との生活が……刑務所……?」

「ひいいっ」

 思わずベルは常夜の背後に隠れていた。前に押し出された常夜がおもわず容疑者に耳打ちをする。

「ちょっとあんた、何とかしなさいよ‼」

「無理だよてめえの同僚じゃねえか‼」

「男なら責任を取りなさい……っ」

「刑務所つって地雷踏んだのはあんただろ!」

「同意したのはあんたでしょうが‼」

 二人の論争はそこで打ち止めとなった。小夜の手が二人の肩に置かれたからである。富永とベルはギギギと錆びついたドアのような音を立てて彼女の方を振り向く。

 史上最凶の諜報員がたぎる憎悪の瞳で二人を睨みつけていた。常夜は以前送還中のテロリストを見たことがあるが、彼の顔が菩薩の慈悲ある微笑みに思えてくる。

「わかりましたあ……小夜は気づいちゃいました……お二人はお付き合いをしていたんですね……そうなんでしょう……そうして小夜を笑いものにして……」

「ちちち違うのよ小夜ちゃん」

 ベルはもはや声が出ない。こくこくと首を縦に振って常夜に同意する。

「竜一さんは……常夜さんと……他の女の人を見ちゃダメって言ったのに……そっか……彼女さんがいたのかあ……そっかあ……そうですよねえ」

「お願いだから私の話を聞いて‼」

「常夜さんは……竜一さんの何なんですか……どこで知り合ったのなんで名前を知ってるのなんでお喋りをしてたのなんでなんでなんで」

「しししし仕事よ逮捕のためよそれ以外の何もないわ神と仏と天使と悪魔に誓いますうううう‼」

「仕事のお付き合いが……いつしか男女のお付き合いに……そっかそっかそっかあ……」

「ごごご誤解でありますどうか申し開きの機会を‼」

「おおお俺からもお願いいたします‼」

 なんで犯罪者が捜査官を擁護しているのだろう。

 小夜は親の仇を見るような目で二人を睨みつけた後、床に落ちていた一枚の紙きれを拾った。

「さささ小夜ちゃんそれは……」

「さっき何か……サインしてましたよねえ……契約成立……? 何の契約……? もしかして」

 この誤解はまずい。

「こ・ん・い・ん・と・ど・け……って書いてますよねえ……?」

「」

 ついに常夜もフリーズした。弁明を諦めたのである。

 婚姻届なんて誰も書いてねえよ。司法取引のサインだよ。落ち着いて字くらい読めよ、内務省の筆記試験通ったんだろ⁉

 だがそんな弁明が意味をなさないことはもう嫌というほど知っている。天を仰ぎ己の非運を受け入れることにした。

「竜一君……胸糞悪いけど同じ命日になりそうね……」

「そっすね……短い間でしたけど楽しかったっす……」

「君は全然タイプじゃないんだけどね……」

「楽に死ねるといいっすね……」

 一度思い込んだ今名小夜の容疑を晴らすことは不可能である。疑わしきは罰せよ、まさに防犯課の鑑。明石課長も鼻が高かろう。課員が一人死ぬけど。家族に遺族年金降りるかな。ていうかこれって労災にあたるの?

「また二人だけでお話をして……小夜を差し置いて……付き合ってたんでしょう……? 泥棒猫、動かぬ証拠……吐け……吐けえええ……!」

 証拠なんてないわよ付き合ってないんですから。ああそうか、この子の基準だと話したり顔を合わせた時点で付き合ってることになるのね。なんて拡大解釈、内務大臣もびっくりだわ!

「小夜は、小夜は……今でも竜一さんのことが好き……竜一さんは絶対、竜一さんの判断は定義上正しい……だから浮気は……小夜が未熟な証拠……小夜の愛が足りなかったから……」

 浮気なんてしてねえよそもそも付き合ってないんだから定義上不可能じゃん……と思ったが口にするのは憚られた。ベルとて苦しんで死ぬのは嫌だからである。

 ともあれ最期に言い残したいことがある。覚悟が定まったのか声が出るようになった。どうせならラスボス風にカッコつけて死にたいしね。


「内務省治安局防犯課諜報員今名小夜……まずはその辣腕を称えよう。俺の本名はおろか、家族構成や資金源まですべて明らかにしたその腕は見事だ。正直ちびったぜ(比喩ではない、念のため)。

 諜報員としての素質に疑いをはさむ余地はない。君は世界をとれるだろう。防犯課に向いてると思うよ、悪い意味で。

 以下は職務に関してではなく個人的に君の将来を思って助言するのだが……」

 

 一、お付き合いしたい相手がいたら、まず相手にその意思があるかどうか確認しましょう

 一、どんなに好きな人でも過ちを犯すことはあります。妄信せず、批判すべき時は批判しましょう。相手は犯罪者かもしれません

 一、君が恋人に捨てられるとしたら、それは愛の不足ではなく過剰が原因だから間違えないように。

 一、浮気を疑いだしたらキリがないからやめましょう。どんなに浮気相手が憎くても早まって相手の女性を傷つけてはいけません。100%君の誤解だから。

 一、通常の社会生活を送る男性に対して一切の女性との会話や顔合わせを禁じることは不可能です

 一、もう少し人の話をよく聞き落ち着いて行動しましょう。何をどうしたら司法取引と婚姻届を間違えるのですか

 一、恋人の友人の名前もちゃんと覚えましょう。間違えるのは仕方ありませんが、毎回名前が変わっているのはいただけません

 一、男性は意外と繊細な生き物です。好き好き好き好きの波状攻撃はやめましょう。

 一、男性はかなり繊細な生き物です。波状攻撃は本当にやめましょう

 一、上司や同僚を信頼しましょう。恋に落ちたら身近な人物に相談し、助言を求めましょう。その助言には必ず従うこと。

 一、君は興味のない相手や敵とみなした相手に対して少々高圧的なところがあります。パワハラで訴えられないよう注意しましょう

 一、君子の交わりは水のごとし。何でも知りたがるのはやめましょう。相手のプライバシーを尊重しましょう。

 一、愛も信仰も素晴らしいものです。ですが両者を混同してはいけません。信仰は神のもの、人間に捧げてはいけません。人間には愛のみを捧げるようにしましょう

 一、君の場合は愛も捧げてはいけません。

 一、恋人をその辺の生ゴミのように、それ以外の人々を恋人のように扱うことを心がければ多少はマシになるかと思われます。

 一、これらのルールが守れないうちは恋愛をしないようにしましょう

 一、それでも恋に落ちてしまったときは遠距離恋愛で我慢しましょう。ただしここでいう遠距離とは複数の国境をまたいだ距離のことです。1mは遠距離ではありませんので注意しましょう

 一、上記の文章を落ち着いて百回音読し、暗唱しましょう。ただし内容を改変・捏造しないよう、同僚の監視の下で行うこと。

 


 短い間でしたが、君と出会って天にも昇る気持ちを味わえました。君は神様が遣わした天使ですか。悪いことをしたら罰が当たるということをよく理解できました。いまや恩寵を授かり、あたかも刑務所が宮殿のように感じられます。自由とはかくも素晴らしいものであったかと毎日感謝をしています。司法取引をして本当に良かったです。悪い奴らは君の愛を知らないからそんなことができるのでしょうね。君に愛されればどんな悪人も心を改め、歓喜の涙を流しながら自首をすることでしょう。女性の愛情が悪人を悔い改めさせるなどというのは映画の中の話だと思っていましたが本当にあるようです。きっと君は神様が悪を滅ぼすために地上に遣わした天使なのでしょうね。天使なのですから、地上の人間に恋をしないようにしましょうね

 ――刑務所より悪意を込めて 浦見竜一


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