壁の向こうの音色
この国は壁で分断されている。
五十年前に起きた内戦で国は二つに隔てられ、壁を築いて完全に交流を断ってしまった。
見渡す限り緑の続く草原に築かれた壁は異質で、石を積み上げ高くそびえている。
私の祖父は激化した内戦に駆り出されたまま、築かれた壁によって故郷の村に戻ることができなくなってしまった。
祖父はヴァイオリンが得意で、戦い方なんて何一つ知らなかったのに、ヴァイオリンを置いて武器を持たざるを得なかった。
結婚したばかりの妻を故郷に残したまま。
祖母と祖父が暮らした村は、ちょうど壁が築かれた場所にあった。
壁が造られたことで村ごと移動することを余儀なくされ、祖母は祖父と暮らした思い出の詰まった家を失った。
そのとき祖母は身籠っていたけれど、祖父は我が子を見ることもできず、祖母は夫の安否を知ることでもできないまま女手一つで必死に育てた。
ある日、祖母は祖父と暮らした家があった、壁の近くまで足を運んだ。
家はとうになかったけれど、祖父と共に過ごしたその場所にたたずんでいた祖母は、壁の向こうから微かにヴァイオリンの音色が聞こえてくることに気づいた。
――あの音色は夫だ。
祖母はすぐにそのヴァイオリンの音色が、祖父の弾く音だと分かった。
優しく、温かな音色。
――夫は生きている、今も大好きなヴァイオリンを奏でている。
ヴァイオリンを置き武器を持たざるを得なかった祖父が再びヴァイオリンを手にできていることを嬉しく思い、今も生きていることを喜んだ。
しかし、生きているならもう一度会いたいと願っても、築かれた壁はそれを許してくれなかった。
微かにヴァイオリンの音色を運んできてはくれるけれど、声を届けることはできない。
祖母の喜びは悲しみに変わった。
すぐ向こうにいるのに。
無事生きているのに。
もう一度会って顔を見ることは叶わない。
この壁のせいで。
壁の前で嘆き続けた。
そんな祖母の耳に、祖父の奏でる優しく温かなヴァイオリンの音色は届いた。
祖母と祖父は、恋人だったときから、毎日農作業を終えたあとの夕暮れ前までの僅かな時間に会って、祖父はヴァイオリンを奏でていたという。
そして結婚するときに、祖父は毎日必ず祖母のためにヴァイオリンを奏でると約束したらしい。
祖父は、会うことができなくなっても、壁の向こうで約束を守り続けた。
祖母のために毎日欠かすことなく、ヴァイオリンの音色を届けてくれた。
そのことに気づいた祖母は、生まれた我が子を連れて毎日壁の近くまで行き、祖父の奏でる音色に耳を寄せた。
父を知らない我が子に父の存在を教えるために。
そして年を取ってからは、孫である私が祖母に付き添って壁の近くまで一緒に行くようになった。
壁のすぐ側でヴァイオリンの音色に耳を澄ます祖母の姿は、まるで恋をする少女の様だった。
ヴァイオリンの音色は唯一、祖母と祖父を繋ぐものだった。
でも、祖母は音色で祖父の存在を知ることができるけれど、声の届かない壁の向こうにいる祖父は自身が奏でるヴァイオリンの音色を祖母が聞いているか分からないはずだ。
それでも祖父は毎日何年も奏で続けた。
祖母は、亡くなる前日まで祖父のヴァイオリンの音色を聞いていた。
祖母の葬儀が終わった後、私は無意識のうちに、気づけばいつものように壁の近くまで足を運んでいた。
ヴァイオリンの音色を聞く祖母はいなくなっても、壁の向こうからは変わらず音色が届いた。
もう音色を聞かせたい祖母はこの場にいないのに。
それを伝える術もなく、奏でられる祖父の音色。
このまま誰も聞くことがなくなってしまうのかと思ったら、毎日聞いてきた音色が悲しく感じられた。
祖父の奏でるヴァイオリンの音色に耳を寄せる祖母の少女の様な姿を思い出して、私は次の日からも音色を聞くためにこの場所へ足を運び続けた。
毎日奏でられる、祖父の優しく温かな音色。
一度も会ったことのない祖父と、何十年も祖父を思い続けた祖母を思い浮かべながら。
二人の存在を感じる音色に聞き入った。
祖母が亡くなって三年後、突然壁が壊されることになった。
五十年の年月を経て、国が一つに戻るべく歩み寄ることを決めたらしい。
国の偉い人たちが壁を壊して手を取り合うのをきっかけとして、徐々に壁は崩されていき、草原に伸びるこの壁も撤去される日がやってきた。
それを聞いて私は急いでいつもの場所へと向かった。
祖父が祖母のためにヴァイオリンを奏でていた場所。
きっと、あの場所に祖父がいるはずだ。
一度も会ったことのない祖父を探して、遮る壁がなくなり見晴らしの良くなった広大な草原を見渡した。
けれど、どこを見ても祖父らしき姿はなかった。
代わりに、祖父よりもっともっと若い、私とそう年の頃が変わらないだろう青年の姿があった。
彼の手には、ヴァイオリンがあった。
それを見つめていると、青年が私の方に気づいて口を開いた。
「――すみません。ラモーナ・コックスさんという女性を知りませんか? お伝えしなければならないことがあって、探しているんです」
思わず息を飲む。
「……ラモーナは、亡くなった祖母の名です」
そう言うと、青年は目を見開いた。
「亡くなっていたのですか……」
青年が沈んだ声で俯く。
彼は一体誰だろう。
なぜ祖母の名を知っているのか。
祖母に何を伝えたいのだろうか。
「あの、あなたは……?」
そう尋ねれば、青年ははっとしたように顔を上げ、手に持っていたヴァイオリンを強く握った。
「ぼくは、ユージン・コックス氏からヴァイオリンの教えを受けていました、弟子のセドリックと言います」
「祖父の……? あのっ、祖父は今どこに……っ?」
「……師匠は二年前に亡くなりました」
青年の言葉に再び息を飲んだ後、一つの疑問に辿り着く。
祖父が二年前に亡くなったと言ったけれど、ヴァイオリンの音色は昨日も壁の向こうから届いていたはず。
「けど、祖父のヴァイオリンの音色はずっと壁の向こうから届いて……」
そう言うと、青年は目を見開いた。
「ヴァイオリンの音色……届いていたんですね。良かった……」
安堵したようにそう呟いたのも束の間、青年は眉尻を下げて告げた。
「師匠が亡きあと、ヴァイオリンを弾いていたのはぼくです」
「あなたが……?」
私はもう一度、青年が持っているヴァイオリンを見つめた。
「師匠はよく奥様の話をされていました。優しく、美しく、世界で一番素敵な女性だと。ぼくは師匠からその話しを聞くのがとても好きでした」
私は祖父と会ったことがない。
けれど祖母がよく聞かせてくれた祖父との思い出話と同じように、祖父もまた祖母のことを語る姿が不思議と想像できた。
「壁で国が分断され故郷へ戻ることができなくなった後も、師匠はずっと奥様との約束を果たそうとしていました。音色が届くか分からなくても、約束したから、と。亡くなる直前まで、その約束を続けられなくなることを心配して……だからぼくは師匠が亡くなったあと、代わりにヴァイオリンを弾き続けてきました」
二年前に祖父が亡くなってからも変わらず届いていた音色は、そういうことだったのか。
疑問の理由が判明し、私は小さく頷いた。
そんな私に、青年は視線を揺らして地面へと落とした。
「けれど、師匠ではなくぼくがヴァイオリンを弾き続けていることは、あなたのお祖母様を騙しているものでした。だから、壁が壊されることになったとき、真っ先に謝罪しようと思ったんです。でも、亡くなっていたなんて……」
彼のヴァイオリンを持つ手が震えていた。
「あの、お祖母様が亡くなったのはいつですか……?」
「三年前です」
「三年前……」
三年前に祖母が亡くなったことを告げると、青年は、あぁと独り言のように声を漏らした。
「じゃあ、ぼくのやっていたことは意味がなかったんですね。正直言うと、師匠には及ばないぼくの腕では、音色が違うことを気づかれていないか、不安でもあったんです」
彼は眉を下げて苦笑いを浮かべた。
昔から祖父の音色を聞いていた祖母だったら、違いに気づいたかもしれない。
でも、そんな不安を抱えながらも、祖父が亡くなってから二年も毎日弾き続けてくれていた彼のヴァイオリンは、決して意味がなかったとは思わなかった。
「そんなことはありません。私は、あなたの奏でるヴァイオリンの音色も素晴らしいと思います。祖父と同じ、優しく温かな音色でした」
私には細かな違いは分からないけれど、祖父が亡くなったあとのこの二年、変わらず壁の向こうから届いた音色も、優しく温かな音色だと感じた。
祖父が亡くなったことでヴァイオリンの音色が途絶えると祖母が悲しむと思って、一度も会ったことのない祖母のために奏で続けてくれた、そんな優しが込められた音色。
「祖母は、祖父のヴァイオリンの音色を聞くのを毎日楽しみにしていました。その祖母が亡くなってからは、代わりに私が毎日ヴァイオリンの音色を聞きに来ていたんです」
三年前に祖母が亡くなり、二年前には祖父も亡くなってしまい、それでも途絶えることのなかったヴァイオリンの音色。
祖母の代わりに孫である私が聞き、祖父の代わりに弟子である彼がヴァイオリンを奏でた。
隔てる壁のせいで知ることができなかったとはいえ、約束を交わした二人の亡きあとも続いてきたのは、奇跡だと言えた。
そう言うと、青年は優しい笑みを零した。
「じゃあ、ぼくは、あなたのためにヴァイオリンを弾いていたんですね」
私のために。
祖父が祖母のために奏でたように。
そんな風に、あの音色は私に届けられていたのかと思うと、嬉しい気持ちが込み上げた。
ついさっき初めて会ったばかりの人なのに、そう思えないのは、彼のヴァイオリンの音色をずっと聞いていたからだろうか。
まるで昔から知っている、そんな風に感じられた。
でも、もう祖母がいないことを知ったから、彼が祖父の代わりにヴァイオリンを奏でる必要はない。
そう思うと、心に穴が開いたような、激しい焦燥感が込み上げたとき、彼が小さな声で、あの……と言った。
「これからも、あなたのためにヴァイオリンを弾いても良いですか?」
その言葉に考える間もなく私は頷いた。
彼は優しく笑うと、手に持っていたヴァイオリンを奏でた。
その音色は、優しく、温かな音色だった。
もう国を分ける悲しい壁はない。
緑広がる草原には、優しく温かなヴァイオリンの音色が、どこまでも響き渡った――。
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